夢の中の夢

私たちは、夢の中の夢に生きていると言われることがよくあります。

例えば、目の前で起きている現象をどのように捉えるのかという点について、様々なフィルターがあります。簡単に挙げるだけでも

  • そもそも目の前の出来事に興味が持てず、見ていても見ていない(情報として処理できていない)
  • 自分の興味関心によって興味を持つポイントが様々であるため、偏りすぎている場合には誰とも共有できない
  • 見た情報に関して自分独自の解釈をし始めるが、偏りすぎている場合にはほとんど現実や事実と無関係な解釈になってしまう
  • 自分の持つ価値観に拘泥しすぎると、すべての情報に対してジャッジする自動反応が生じ、相手を自分の価値観で決めつけてしまう

大変紛らわしいのは、今まで私たちは「自分の考えを持つことが大切だ」と教えられてきました。自立して自分個人として十分に独立した意見を持ち、個人としてアイデンティティを確立することが大切だと教えられてきました。

特に戦後は西洋の考え方が大変に影響力を持って個人主義的思想が至上であると思われてきました。

しかし、個人主義が孤独を生む側面を持つことは否めません。考えが合わなければ最終的には別れるしかないからです。Win-Winが理想ですが、それが出来ないくらいなら関係そのものを持たない方がお互いに幸せであるという考え方が現代では一般的であると思います。

これは、アイデンティティをどこに根ざすかと言う重大な問題と密接にリンクしています。

2011年の大震災以降、人とのつながりの大切さが見直されてきたと言われています。つながりとは、単純に物理的距離が近いことでしょうか。単純に、連絡の頻度が高いことでしょうか。まったく心がつながっていないのに近くにいて一緒にいればつながっていると言えるのでしょうか

ある事例

最近聞いた話ですが、1年にたった2週間しか会えない父親を大変に尊敬している男性がいました。彼の生き方はとても輝いていましたし、本当に素晴らしいと思いました。この場合、彼と父親のつながりとは、会う回数でしょうか、時間でしょうか。

つながりとは何なのかという定義が必要そうです。

最初の話しに戻るのですが、映画「マトリックス」でうまく描写されていましたが、私たちはほとんど思い込みの牢獄の中にいるようなものです。この牢獄には階層がありそうです。つまり、一つ思い込みを手放したとしても、次々に出てくると言うことです。

この牢獄を本当に出ない限りは、人は相手の話を聞いてもいないし、理解も出来ないのです。人は自分の心の牢獄を出ることもなく、一生を通して何一つ知ることもなく死んでしまうのです。

これほど寂しいことがあるでしょうか。

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