どう生きるのか

人は、生きる指針を何によって得るのでしょうか。多くの場合、生まれ育った家庭環境の中でプログラムされ、制限され、その囲いの中で精一杯模索するのが一般的です。

しかし、時として、プログラムそのものが本人にとって害となることがあり、プログラムがある前提でどれほどの探求をしても一向に幸せになれないことがあると思います。

その場合、生きる前提とも言えるプログラムそのものを手放す知恵が必要となるわけですが、この手放すという言葉は言語で明確に伝達できる概念ではありません。

現時点で一般的に言われる対症療法は、多様な人々と接すると言うことです。多彩な人々と接する中で自分の考えや基礎OSが少し現実離れしていることに気づいたり、モデリングしたくなるような幸せな人と出会ったりするからです。

障害

しかしながら、いくつか障害となることがあります。まず、新しく出会う人とどのように関わるのかという問題です。他者の話を聞くのはいいのですが、それを聞いているあなたとはどういう存在なのか、そのアイデンティティの定義が非常に重要であることが分かってきました。

一つの例を挙げましょう。カルト宗教に依存する人々は、オ○ム真理教の時にもよく言われましたが、意外と高学歴の人が多かったのです。その心理構造を私なりに解析すると、信念の一つに「自分はどう生きればいいのか分からない」というものが根強くあると思います。

この、「自分はどう生きればいいのか分からない」という信念が強いと、新しく出会った価値観に対してとても依存的になってしまうと言うことです。これはどのように考えればいいのでしょうか。

シンプルな構造で表現すれば、育成過程で十分な愛情を受けることなく(もしくはそのように感じて)育った場合には、自己肯定感が非常に低くなります。そのため、自分の考えというものに全く信頼を置くことができず、常に他者の価値観に対して服従してしまうと言う傾向が生まれます。

これは心の構造の話しなので、基本的には必ずこうなります。それほど、人間というものは環境によって決められてしまう存在なのです。少し脱線しますが、自己肯定感というのはお金があるとかないとか、そういった外的要素とは無関係なものです。従って、どれほど衣食住が充足されているのかとは無関係に、必要な愛情がなければ人間の自尊心というものは破壊されてしまうのです。

アイデンティティ

上の方でアイデンティティ、自己肯定感という言葉を出しましたが、まず自分という人間をどのように認識しているのかによって、新しい価値観に対してどのように接するのかというのが決まってきます。

非常に依存的傾向が強い場合には(これは当人の責任ではないのですが)、新しい価値観に対して非常に隷属的になってしまうことが考えられます。望ましい価値観であっても、隷属的であることで本人もその周囲にいる人も、どこか心からの充足感とは呼べない状況が生まれやすくなります。

また、個人主義的傾向が発達しすぎた場合にはどうなるでしょうか。「あなたはそう考えているのですね」「自分はこう考えます」などのように、他者の考えを理解すると共に自らの考えも発信し、一見正常な交流が行われているように思えますが、これが行き過ぎると結局誰と出会っても自らの考えを変化させることなく、「自分は○○という人間です」という確立したアイデンティティとして一生を生きることになります。

これのどこが問題なのかという視点が一つあります。それは、人間というのは本来固定したアイデンティティでは生きられない生き物なのです。

変化

なぜ、釈迦は2,500年も前に諸行無常を説いたのでしょうか。そしてそれがなぜ現代でも価値あるものとして伝えられているのでしょうか。

それは、固定されるものなど実はないと言うことです。固定しようとするのは人間のマインドの働きによるものであり、人為的とも言える行為であり、それは人為的であるが故に不自然なのです。

では、人間はせっかく思考という能力を身につけ、動物と差異化される食物連鎖の最上位となる存在にもなったのに、その思考能力を手放せというのでしょうか。そうではありません。思考能力とは主体的に使うものであり、つまりは道具として使うものなのです。

人間は本来、思考によって支配されるべき存在ではなく、思考をも支配する存在なのです。

今回はこの辺にしておきましょう。

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