フィルターを通さない人間関係

作り上げられたフィルター

生まれ育った環境によって、この世界を見るときの色眼鏡(フィルター)が決まります。これは基本的に人の数だけあります。

フィルターの歪み度合は千差万別です。かなり澄んだ状態のフィルターの人もいれば、複雑な屈折や汚れ、濁りがあって現実認識がかなり特殊な状態になっている人もいるでしょう。それによってクリアにものを見ることが出来る人もいれば、まともに人の話を聞けない状態の人もいるでしょう。

この世界には様々なフィルターを持った人が住んでいますが、完全にお互いが理解し合うというのは難しいことです。例え人々がお互いに出会ったとしても、自分のフィルターを通してしか見ることができないため、本当に相手が見ているものを見ることができないのです。従って、誠に悲しいことでありますが、出会っているのに出会っていない、見ているのに見ていないというような現象が起こっているのが今のこの世の中であるとも言えます。

そうはいっても原則として人は孤独を避けたい生き物ですので、似たもの同士で集まります。似たもの同士であれば同じようなフィルターを持っているため、つながりを持ちやすいのです。そして、同じような人がいると「自分はこれでいいのだ」と安心する根拠にもなったりしますが、実際のところそれはお互いが幻想のようなものを共有しているだけの状態と言えるのかもしれません。

しかしながら、自分とは相容れないフィルターを持った人との関係はどうでしょうか。自分、もしくは自分たちの集団と相容れない人たちのことは理解できないまま、相手を自己流の理解方式で決めつけて、交流を断念します。国と国でも、同じことが起こります。なぜなら、人間とは無意識に自分の理解方式が絶対で正しいと思っているからです。

出会いの持つ意味

人生のステージを変えるためには多様な人と出会うことが必要とよく言われます。よく語られる切り口はシャドーの統合(人は鏡)ですが、今回は違う切り口で書きます。

一般の出会いとコミュニケーションを、例えばAさんとBさんが出会うケースで考えてみます。

AさんはBさんのことを、Aさんのフィルターを通して見聞きし、Aさんの理解方式によって理解します。それによってAさんから見たBさん像が出来上がることでしょう。

しかしこれだと、AさんはBさんと出会っているにも関わらず自分のフィルターを外せていないし、自己流の解釈でしかBさんのことを知ることができないのです。つまり、AさんはBさんと出会っているにも関わらずAさんの世界を出ることができていないのです。

誰と出会っても自分の世界を出ることがないのであれば、それは出会っていないとも言えます。「自分の経験に照らし合わせてきっとこうだろう」という理解方式しかできないのであれば、想像を超えたものと出会えないと言うことなのです。

自分からいかに出られるか

上記の文脈に沿って言えば、相手と本当に出会うためには「自分」を出なければならないということになります。なぜなら、本当に相手の言っていることを理解すると言うことは「相手の生まれ育った背景を知り、立場を知り、使用する言葉のイメージまで知った上で」相手の言葉を聞くと言うことだからです。

これは本当に相手に興味を持たないとできることではありません。相手の言葉と態度、表情(ノンバーバル)なもの、つまり5感覚で入ってくる情報をすべて観察できれば相手のことが分かるというのは幻想です。相手を構成しているすべての背景が理解できなければ、本当に相手が言っていることなど分からないと言うことなのです。

「自分の目から見た相手」という理解方式だけでは実は限界があるのです。

従って、相手の話を聞くという行為は「自分」をいかに捨てられるかという真剣勝負とも言い換えられるのです。深いコミュニケーションに「無我の境地」という要素が必要なのはこの理由からです。

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