「自分の中に答えがある」の落とし穴

人間は誰しも、よく分からずにこの世に誕生してきます。

赤ん坊としてこの世に生まれてきて、誰かしらの育ての親から育てられるわけですが、その親子関係を通して自分の生きる道を見つけられる人は幸いでしょう。

しかし、一度考えてみてもいいかもしれません。その人はその人で、インプットされた情報に基づいてアイデンティティを形成しているわけです。それが問題だというわけではないのですが、その価値基準体系が絶対だと思うことでもしかしたら弊害もあるのかもしれません。

しかし一方で、生きる意味や目的が分からなくなるケースも大変多いと思います。

ある人は、自由を求めるかもしれません。それは、それまでの人生がひどく制限的であったことが起因しているかもしれません。

またある人は、好きなことをライフワークにして生きていきたいと思うかもしれません。それもまた、過去に好きなことをして生きることができなかったという反省に基づいているのかもしれません。

答え」を教えてあげようとする人は多いです。しかし、「答え」を教えてあげようとする人の価値基準体系に基づく正解を聞いたとして、果たして人は誰もが幸せになれるのでしょうか。実に怪しいものです。誰もがそうなりたいと思っているのか、と言い換えてもいいかもしれません。

「自分の中に答えがある」

さて、道を求める人は、ここからまた道を外れていきます。なぜなら、他者から受け取った答えが自分にとっての答えかどうかは、結局最終判断として主体的判断を下さなければならないからです。今回は、「自分の中に答えがある」という考え方の盲点について考えてみたいと思います。

的を絞り、「感情」を手がかりにして自分を見つけるというポイントについて言及しましょう。(あまりにも膨大な情報量を扱うテーマなので、絞らないとまとまらないからです)

「自分」という人間を知りたいときに、「感情を手がかりにする」というのは強力な手がかりになります。なぜなら、無意識な諦めに気づいたり、恐怖から逃げようとする自分に気づいたりできますし、怒りの感情からは自分の強迫観念に気づく手がかりにすることもできるからです。

さて、感情を知り、観念を知り、自分の価値判断基準を知ったとしましょう。それだけでも大変な苦労を伴うものです。ある意味、このマトリックス世界の成り立ちに気づくレベルの大いなる気づきであるとも言えるでしょう。

マトリックスに気づいた先

しかし、追求はここで終わりなのでしょうか。感情や観念や価値判断基準を知ることは、最終到達地点ではありません。従って、答えが見つかったと言って安堵していてはいけないのだと思います。

本来人間は、あらゆる価値判断基準から自由になれる存在であり、その大自由の境地から今この瞬間を自由に創造できる存在だからです。従って、感情や観念や価値判断基準を探ることで見つかった自分は過去の自分に過ぎず、そこに縛られる必要はないと言うことになります。

つまり、探していたはずの自分の中に答えがないと言うことになります。これは私が気づいたパラドックスのようなものです。

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