条件付きか、無条件か

20年ほど前になるでしょうか。

個人的にとても興味があり、子育てに必要な要素を調べていたことがありました。その中で、「無条件の愛」が子供には必要だという記述がとても印象的でした。

分かりやすいので、逆説的に「条件付きの愛」について様々な観点から述べてみましょう。その対称として、「無条件」がどのようなものか浮かび上がってくるのではないかと思います。

条件付きの愛

例えば、以下のような価値観の元で育てられることで、子供は無意識レベルで親から愛情を得ようとするために自分を常にその条件に合わせようと努力するようになります。もしくは、反発して逆に進むかもしれません。いずれにしても、自由ではありません。

いい成績を取って、いい大学に行くべきだ
お金持ちになって成功することがいいことだ
常に前向きで、笑顔でいるべきだ
平凡でいることがいいことだ。
人は信用してはならない。他者に心を開いてはならない。
思ったことを言ってはならない。常に考え続けることがいいことだ。
全否定。何がOKかの定義もなく、常に子供を支配下に置き、否定し続ける。

例えなどは無限に出てきますので、上記のものに限りません。
また、余程精神的に高い次元に達している親でない限りは、何らかの価値判断基準を持ち合わせているでしょう。

さて、人間なら誰しも持っていそうな価値判断基準ですが、これを絶対視している状態か、手放せる程度に自由な状態かによって大きく違いが生まれます。

恐らく、自分の価値判断基準を絶対視している親は、その基準から外れた子供を無意識レベルで受け入れることができないでしょう。その無意識レベルのエネルギーは、恐らく子供に伝わります。なぜなら、親子の結びつきは言語を超えて強いものであり、言葉にしなかったから伝わらないというようなレベルのものではないからです。

ありのままでいられないこと

条件付きの愛しか受け取れなかった子供は、基本的に、ありのままの自分でOKとは思えない精神性で育ってしまいます。そして、恐らくはいつもどこか、本来の輝きから遠く離れた存在として生きていくことになるでしょう。

いつも明るく元気なように見えても、内面を探ってみれば脅迫観念的な思いが根底にあるケースもよく見られます。

ありのままの自分を愛せない人は、他者といても疲れてしまうのです。あるいは、自分が疲れなくても、相手を疲れさせます。しかし、これは自分の責任でそうなったわけでもないので辛いところです。

無条件の愛

無条件の愛とは、いかに人間にとって難しいものなのでしょうか。

それは、自分の価値基準体系に反していても、自分のストライクゾーンから外れていても相手を愛せるのかということなのです。

誤用のケースとしては、「これも愛だ」と言いながら体罰をするケースもあるわけですから、愛だと言って何でもかんでも正当化できるわけではないと思います。個人的な思い込み世界によって無理矢理正当化している「愛」は、名付けるならばエゴ的な自己愛なのかもしれません。正当化が必要な愛は、愛とは思えないです。

総括

自我を確立する、自立することと、愛になることが少し方向性が違うと言うことが分かるでしょうか。両立はすると思いますが、異なる努力が必要な分野であると思います。

少なくとも自分の価値基準体系が絶対だと思っていたら愛にはなれないと思います。しかしまた逆に、謙虚になりすぎて常に相手を立てていたとしても、これもまた違うと思います。

重要なポイントは、価値基準体系は自分のアイデンティティーと関係がない(イコールではない)という理解だと思います。

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