「全ては完璧」の限界

老子の悟りというものがあります。

仏教の悟りというものもあります。

全てはであり、であることを悟ることです。

また、スピリチュアルの教えでもそうなりがちなのですが、「絶対肯定」の立場からすれば、「今この瞬間の全てが完璧である」というのはある種の完成形だと思います。全ての苦しみから解放されて、ある種、山にこもるような境地とも言えるでしょう。

全ての5感覚、肉体を持った人間としての苦しみや脳の錯覚から解放された人は、現世への囚われがなくなるという文脈になります。

全ては完璧」の限界

この文脈で考えると、次のような考え方になります。

苦しんでいる人は、その苦しみを自ら選んでいる。病気の人は、自ら病気になることを選んでいる。

つまり、その人の苦しみはその人が選んでいることであり、他者が介入する必要はない、という文脈になっていきます。基本的に、分離ベースのアイデンティティ・考え方をする前提であれば、わざわざ火の中に飛び込むこともないというのも理解できます。

ミッションを持つ

この世界はすでに完璧だという観点に立つとするならば、特に何もする必要はなさそうです。この世界が既に完璧であるが故に世界に対して何ら責任を負うこともなく、そうであるが故にただ自分の好きなように生きるという方向性にもなってしまいそうです。

資本主義が崩壊しようと、原発の問題が解決しなくても、苦しんでいる人がいたとしても、老子の悟りや仏教の悟りがベースだと、それらに介入する必然性がなくなります。なぜなら、全てが空であり、無だからです

では、究極の世界というのはそのような高みの見物のような境地なのでしょうか。苦しんでいる人の存在を認識しながら、手を差し伸べないことが高い境地と言えるのでしょうか。世界の人々の苦しみと無関係なのでしょうか。

私は、本当に高みに達した人はミッションを持つと思います。それが悟りの最高レベルとも言える「入鄽垂手」だと考えています。この現実世界が錯覚だと分かりながらこの世界に戻ってきて、世界を救済するミッションを持つのです。

介入するためのアイデンティティ

ここについては簡単にしか触れませんが、相対世界に住みながら、境界線を強く持った状態で他者に介入することは非常に難しいです。なぜなら、基本的に相手を「×」前提で見てしまうからです。「×」を「○」に変えてあげるという風に考えていれば、それはその人の価値判断基準や観点の中の○×が基準になっていると言うことになってしまうからです。

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