「知っている世界」から自由になること

昨日、ある方の話を聞いていて、面白いなと思うポイントがありました。
それは、名前を付けずに、暗記の知識で対象を決めつけずに
対象物と新鮮な目線で出会うと言うことの大切さです。
そこに正解という概念を持ち込まず、各自の自由な発想を大切にすると言うことです。
そうすることで、何でもない毎日の生活が圧倒的に感動的になり、面白いものになると言うことです。

翻って人類は、特に現代人は、圧倒的な情報量にさらされています

パートナーシップはどうするべきか、

Aという状況に対してはどのように対応するべきか、正解はBなのか、Cなのか。

どう生きればいいのか、

幸せになるためにはどうすればいいのか。

圧倒的な情報量です
失敗を前もって防いでくれるという効果もあるかも知れませんが、あまりにも大量に身につけてしまった情報知識は人から感動を奪います。
過去の学習によって「これはこういうものだ」と決めつけてしまい、新たな出会いが出来なくなったとしたら、一体どこに感動があるでしょうか。

新しい情報に接するほどに、その考えや身につけた判断基準でその対象物を見るようになります。

ゼロ化する

なにもないゼロの視点から見ることができれば新鮮で感動的に見えたかも知れないものが、
山ほど身につけた過去の経験知識のフィルターを通して見たその対象物は、最初からひどく
色あせて見えるかも知れません。

ここでのポイントは、本当の自分と対象物の間にフィルターが何重にもあると言うことです。
そして、そのフィルターのせいで、本来の対象物が全然違った形で見えたり、
そもそも見ているような気になって見ていなかったり、
見ても価値判断基準に従って○×をつけたりしているということです。

深く追求すると人間としての思い込みや経験知識もあれば、「5感覚脳」というフィルターを通しているという観点も実はあるのですが、ここでは割愛します。

人間は、これほどまでに「出会えない」状態でこれまで500万年間生きてきたと言えるでしょう。

そしてこの課題は、私にも等しく課題設定されています。

今は、圧倒的な情報にさらされる情報社会であるが故に、その対称性として知っている世界から自由になる認識技術が必要とされる時代でもあると言えるのではないでしょうか。

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