全ては錯覚

精神世界の追求をしていくと、この世界は全て錯覚・幻想であるという考えにたどり着きます。

なぜなら、すべては思い込みによって現実現象が作られ、信じる世界によって体験する事柄も決まってくるからです。

人生とは苦しいものと思っていれば、苦しい人生を体験するでしょう。

人生とは楽しいものと思っていれば、楽しい人生を体験するでしょう。

世界がそうなのではなく、信じる世界がそうだと言うことなのです。

錯覚

精神的な学びを追求した結果、結局は全てが思い込みだったと気づくことがあります。

全てが錯覚だったと気づく日が来るのです。

しかし、ここで大きな問題があります。

全ての錯覚を作り出した自分とは一体何者で、錯覚を手放した先に一体どんな自分にたどり着くのでしょうか。

全てが錯覚だったとしたら、では自分とは一体何者なのでしょうか。

その答えがないままに錯覚だと言っていると、恐らくは虚無主義にはまっていきます。

足の踏み場をどこにすれば良いのか分からなくなるかも知れません。

全てが錯覚なら、政治的な問題も戦争も自分には関係がないと言って快楽主義・刹那主義になるかも知れません。

本来の自分

因果律から自由になってしまうと言うことは、Define(定義)能力を取り戻すと言うことです。

そういった意味においては、出来事をどのように解釈し、定義づけるのかは自由と言うことになります。

苦しんでいる人がいても自分には関係がないという風にDefineするのも、もちろん自由でしょう。

自分が信じる価値観に従って救済したいという風にDefineするのも、自由でしょう。

力を取り戻した人間は、自由にDefine出来ると言うことなのです。

そしてそれ故に、自由独立した意思決定が出来ると言うことになり、それによってようやく民主主義を作る基盤が出来るのです。

誰かの考えた正解で他者を蹂躙したり、その価値観を押しつけたり、自分が正解だと主張したりすれば、本当の民主主義にはなりません。

誰もが尊厳を守られ、その上でWIN-WIN-ALL-WIN出来る社会こそ、未来に目指すべき尊厳民主主義だと考えています。

そのためには、アイデンティティが次元上昇しなければなりません。

そしてそれは、明確な論理によって誰もが共有できなければならないのです。

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