ジャッジが無い関係

通常、今の学校の偏差値教育にはまってしまった場合には勉強が出来る、出来ないという人をジャッジする判断基準が出来上がります。

運動が出来る、出来ない。

友達が出来る、出来ない。

集団理念

ある集団を形成する場合、通常はその集団理念が形成されます。

その理念がやがて価値判断基準となり、ジャッジの基準となり、適応している人は○、適応できない人は✕、などのようにジャッジされていきます。集団の形成原理から言って、これは通常避けられないことだと言えそうです。

社会の中でも同じことでは無いでしょうか。正解があり、それに順応できれば○、出来なければ✕となっていないでしょうか。

尊厳関係

そのように、何でもかんでも判断基準が出来上がって他者に○×を付けるような人間関係が果たして幸せなのでしょうか。それは人としての尊厳関係と言えるのでしょうか。

私はずっとその点について追求してきました。

最終的な結論としては、価値判断基準を持つような次元ではなく、その上の次元で人と繋がる次元上昇がベースに無ければこれは不可能だと思います。

もちろん、現実世界で出会うためには何かしらの規定が無ければ出会えませんので、人間的な好き嫌いやジャッジは無くならないかも知れませんが、自分のアイデンティティーはその次元には無いと知ることがとても大切なことだと思います。

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