アウトプット

コミュニケーションにおけるアウトプットについて考えてみたいと思います。

ちょうど私が、今この課題に面しているというのもあって、適切なタイミングだと言うこともあります。

人間関係におけるアウトプットとは、一体どのようなものなのでしょうか。

自分の話

先に私の話をします。

私は、子供の頃から誰も自分に関心を持ってもらえないと思って育ってきましたので、アウトプットすると言う習慣が全く身につきませんでした。また、思っていることを言えば相手の信念を破壊することに繋がるため、ひいてはそれは相手を傷つけることに繋がることと思っており、それはしてはいけないことなのだと思うようになりました。

思っていることを言ってはいけないという信念があるとコミュニケーションがどんどんズレていきます。例えば、自分は人に理解されないと逆恨みするようになることもあります。私の場合、そもそも自分の意見を言ってもいいと思っていないため、誰かから聞かれたときにだけ言ってもいいという許可が下りるものだと思っていました。

言い換えれば、人と出会う機能、コミュニケーション機能が全くない状態で社会に出てしまったのです。極端に言えば能力ゼロのため、だからこそ自分はこの部分について人並み外れた探求をしてきたと言えると思います。ゼロから見ると、普通の人には見えないところまで見えます。だからこそ、語れることも多くあるのだと思います。

規定

さて、アウトプットに言ってもいいことと言ってはいけないことがあるのでしょうか。

それは誰が規定するのでしょうか。誰かが決めたらそれは守らなければならないのでしょうか。

規定する権限を他者に委譲してしまうと、やがて自分の人生を生きている実感がなくなってきます。自分の尊厳を自分で守れなくなっていきます。しかし、今そうだという人も、必要以上に気に病むことはないと思います。何しろ、日本人共通の問題なのです。従って、自分だけの問題だと思う必要はなく、全体の問題として取り組めばいいと思います。

誰か他者が作った規定をしっかり守ることで自分の存在感をアピールするような人もいるかも知れません。しかし、それもまた、虎の威を借る狐のようなもので、ある価値基準体系の中だけで通用する鎧を着て威張っているようなものです。

話がそれました。

言語と非言語

意思を伝達する方法は言語によるバーバルコミュニケーションと、非言語ノンバーバルコミュニケーションの2種類があると言われますが、人はノンバーバルコミュニケーション(非言語)の方からより多くの情報を得ており、そちらの方を無意識的に信頼しているとよく言われます。

しかしまた、非言語や表情などで多くの情報は伝わりはするのですが、表現者が伝えたいものと、観察者が受け取るものには違いが生じます。表現者が悲しい表情をしたとして、悲しいという感情は読み取れるかも知れませんが、しかしなぜ悲しいのかまでは分からないのです。今あなたが話した内容で悲しいと思ったのか、それとも話したことから別の何かを思い出して悲しくなったのか、原因が分からないのです。

それだけ、人間のコミュニケーションは果てしなくズレるものだという事実があります。

言語化

そのような事実を前にして、本当に人と人が出会おうとするのなら、密度の濃いコミュニケーションをしようとするのなら、やはり残念ですが言語で伝達するしかないのですね。アウトプットの苦手な人は、察して欲しいと思うところだとは思いますが、何かがあると言うところまでは察することが出来ても、具体的なところまではやはり言語化がないと難しいのです。

もちろん、表情や仕草、エネルギーなどを読めばかなり相手の意識状態を読み取ることは出来ます。しかし、それでは循環するコミュニケーションとは呼べないと思います。コミュニケーションは究極的にシンプルに考えたとき、やはり循環するという要素によって成立していると考えられます。

もし循環していない会話をしているのであれば、それは会話ではなく思い込みの中にいるだけです。しかし、レベルに差はあれど、基本的に人類共通の問題ですので、みんなで良くなっていきたいと思っています。

今の日本は、民主主義ではないと思います。誰もが主義主張できる文化文明でないのなら、民主主義とは呼べないのだと私たちのリーダーは語ります。私は、この時代を変えたいと思います。

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