愛されていることにしたい人達

この世界を究極的に理解したいと思ったとき、「」というキーワードは避けて通れないものでしょう。これを理解するために人は一生をかけて右往左往していると見ることもできると思います。

私が今まで見てきた人達の中で、十分な親の愛情を受けて健康的な精神を持ち、健康的な自己肯定感をもって生きている人もいましたし、あるいは逆に、十分に必要な愛情を受けられず(またはそのように感じることで)、常に飢餓感を抱え、十分に自己肯定感を持てず、常に何かを埋めるように何かを探し続ける人もいました。

強烈な闇を抱えた人にとって「愛」というキーワードはかなり探求の最終段階に近いところで遭遇するキーワードだと思います。ただし、私はこの「愛」の理解に色んなバリエーションがあり、落とし穴があると思ってきました。その点については様々な角度から今後も検討していきたいと思っています。

愛されていたことにしたい人たち

いくつもあるパターンの中で、今回は一つのパターンを見てみたいと思います。それは「愛されていたことにしたい人たち」です。私から見ると非常に歪んだものの見方だと思うのですが、何でもかんでも「自分は愛されていた」ことにしたい人たちがいました。誤解のないように補足しますと、最終的な究極の境地から言えば、宇宙自然は全て自分の味方であるという境地に達すると思います。ただし、その境地は誰かが語る言葉の暗記によって到達できるようなものではないと思います。

例えば、生まれたばかりの赤子をコインロッカーに遺棄する親がいます。例えば、少しだけ話が変わりますが、農耕によって生計を立てる民族はたくさんの子供を産むと言われています。それは、たくさんの産んだ子供たちが将来の老後を支えてくれる存在となるからだそうです。その視点で見たときに、それは愛ではなく自分の老後の保障であり、あくまで子を愛するという見地ではなくエゴ的発想が起点となっているのが分かるでしょう。

何でもかんでも自分が愛されていたことにしたい人がいました。そうではなく、私は物事を正しく理解する必要があると思うのです。もしも愛されてなかったのだとしたら、それはそれとして正しく現実を受け入れるべきです。なぜならば、それを起点として人生を展開していかなければならないからです。自分の立脚点を知らず、現在地を知らないのにどうして目的地に行けるでしょうか。

例え愛されずに育ったとしても、絶望するにはいささか早いです。なぜならば、それこそが今の日本が抱える闇であり、全体としての問題だからです。個人の抱える問題ではありません。それに、大きな視点で見たときに、それはまた日本だけの問題でもないとも言えます。愛になることは人類にとって究極の目的であり、それほどまでに到達するべき価値のあるものだからです。

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