尊厳民主主義

私が目指す世界は、誰もが平等に主義主張できて誰かの指向性に支配されない世界です。誰かの意見が正解で誰かの意見が間違いだというようなことがない世界です。

ただし、そういうことを言えば「こういう場合はどうなのか」という議論が必ず発生します。そして、多数決的に正義が決まり、それ以外が間違い・誤りであるという論理の誘導が極めて多くの場合起きると思います。その場合、少数派の人々は必ず抑圧される方向に進みます。そしてさらに、多数決による民主主義では自分たちの立場は常に抑圧される立場にさらされ続けるのです。

少数派

私はいつも少数派の立場に立って考えます。この人達さえも幸せに参加できる民主主義とはどういう形だろうかと。それは、心理学的にいえば”I’m OK. You’re OK“の考え方であるとも言えると思います。そしてさらにいえば、OKとは何でしょうか。何か条件に合致すればOKなのでしょうか。つまり、条件付きのOKなのでしょうか。私は心理学等を学ぶ際、精神が健康的に育つためには家庭環境の中で「無条件の愛情」が必要だと学習してきました。

しかし、無条件であると言うことはある種の親にとって極めて難しいハードルになります。なぜなら、自分の判断基準があるし、自分の価値観があるからです。つまり、自分の判断基準や価値観に合致しなければ✕だとしてしまうと言うことです。また、世の中の風潮としても、これらを増長させるような考え方も多く見られました。「自分を信じろ」「よそはよそ、うちはうち」「子供は親の望むように育つべき」などという考え方は、まことしやかに信じられてきたと思います。親は子供を愛するというのは望ましいことではありますが、決して世の中に浸透しているとは言えません。

条件付きの愛情

つまり、世の中の多くの人々が条件付きの愛情しか受けていないと言うことになります。この状態ではどうなるかというと、常に愛情の飢餓状態が発生します。しかしながら幼少期に身につけたパターンによって何らかの「勝ちパターン」を身につけていますので、成人しても一生そのパターンを守り続けるということが発生します。その人が一人で生きていく上では何の問題も無いでしょう。しかし、人間関係を結ぼうとするときにその「勝ちパターン」と他者の「勝ちパターン」がぶつかるのです。これが人間関係で発生する問題の根源だと思います。

このような事態を乗り越えるためには、そもそも自分の判断基準も価値観もある条件下で身についたパターンに過ぎないと知ることが大切です。確かアインシュタインの発言だったと記憶していますが、問題はその問題が発生した次元では解決できないのです。つまり、自分の判断基準や価値観が成立した「後」の次元の自分が自分だと思っていれば、自分の意見は否定されたくないでしょうから、これを守るという働きが発生します。しかし、これらよりも上位の次元でものを考えることが出来たならば、さほど自分の考え方を守る必要性を感じなくなるでしょう。結局、次元が低ければ低いほど問題は多く発生しますし、人間としても傷つくことも増えますので、生きていくことが大変であると言うことも出来ると思います。

しかしながら、本来十分な愛情を注がれていればそのようなことは発生しないわけで、その意味から言っても次元が低いことは責められるべき事とは思いません。つまり、その人は好きでそうなったわけではなく、環境によってそうなったからです。そして、そこで必要となるのは、環境、特に生育環境による因果関係から自由になる技術です。これは、「考え方を変える」「行動を変える」「言葉を換える」というようなものでもある程度の効果はありそうですが、いささか問題なのは、このやり方では正解となる判断基準や価値観を努力によって新たにインストールするというやり方になりがちだと言うことです。

つまり、それまでに比べれば生きやすくなるでしょうが、新たに身につけた判断基準や価値観によってまた他者を裁くようになるでしょう。関係性の問題はゼロにはならないのです。

長くなりました。続きはまたの機会に書きたいと思います。

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