「自分」がある

かつて10代や20代の頃、私は本当にどう生きればいいのか分かりませんでした。

なので、本やメディア、その他手に入る情報からどう生きればいいのか情報を模索したものです。

その頃の私には「自分」などはなく、常に付和雷同の状態でしたし、自分に自信など全くありませんでした。従って、「自分」を持っている人に憧れたものです。しかし、私にはその「自分」というものの正体が分かりませんでした。分からないが求める気持ちは強く、その時私に認識できる限度だったのが、「どうやらエゴ的欲求を優先させていると自分があるという感じに近そうだ」と言うことでした。

今考えるととんでもない発想だと思いますし、今ならほとんど選択しない考え方ですが、その頃の私は必死でしたので、「自分」を追い求めました。

嫌いなことはしない。やりたくないことはしない。自分の生理的欲求に従う。やりたいことをやる。

その頃の私は完全に他者と自分を分離させて考えていましたので、人との繋がりなどありませんでした。そうなるには必然の家庭環境もあるわけですが、そこは今回はよいでしょう。

しかし不思議なものです。どうしても得たかった「自分」を得ようとしても、エゴを優先させても、全く幸せになれないのです。私には全く分かりませんでした。

さらに言えば、引き寄せの法則や願望達成、成功法則などを身につけることでこの苦しみはさらに増大しました。願ったものが手に入ったのに幸せになれないというのはどれほど絶望的なことなのか分かるでしょうか。まだ、どうせ自分には何も出来ないと思って何もしていないときの方がマシです。手に入ったのに幸せではないというのは、もはやこの世界には幸せなど無いと知ってしまったかのようでした。

しかし私には分かっていました。それは、「私」の定義が間違っているからそうなるのだと。つまり、アイデンティティの定義が間違っているからそうなるのだと、分かっていました。それが探求の入り口となったのです。

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