メンタルヘルス

仕事との関係などで心や体を病むことがありますが、その対応としてメンタルヘルスが取りだたされることがあります。

私がメンタルヘルスに興味を持ち始めた約20年ほど前には、中心として語られる切り口、そしてその根底にある価値観などがありました。それは、会社と自分個人とは切り離して考えるべきであり、個人の欲求を大切にするべきだと言うことでした。つまり、「自分」の体調を大切にするべきであり、「自分」の価値観を守り、基本的に会社とは対立構造で捉えられていました。フランスなどでは今でもよく企業側と労働者側の闘争が取りだたされていますが、根底には戦って自分の権利を守るという歴史的な価値観があると思います。

対立構造

ところで、会社とその労働者である個人を対立構造で捉えることで、個人が守られ、そしてメンタルヘルスにも寄与すると考えていましたが、20年間その切り口で社会と関わり、個人主義的な考え方こそが正しいと信じてきましたが、つまり、企業側や経営者側は搾取する側であり、搾取される側である労働者側は自分の身を守らなければならないと考えてきましたが、実際のところ、そのような対立構造での捉え方では日本人的な幸せの感覚として肌に合わないと感じるようになりました。

確かに、犠牲的な考え方で会社や社会と関わることはとても疲弊することです。そのようなスタンスで仕事をする限り、やればやるほど疲弊する・ストレスがたまっていくという構造になるでしょう。しかし逆に、奉仕が喜びとなっている人はどうでしょうか。私はやればやるほど力を増し、パワフルになり、エネルギッシュになり、健康になると思うのです。

しかしこれはワークライフバランスの考え方に反するものである必要もないと思います。つまり、だからといって無制限に働かせて良い理由にはなりませんし、そのようなことを相手の希望に反して押しつけることが、それこそがストレスを生む根本原因になり得ます。

犠牲と奉仕の分岐点

ここで重要な分岐点となるのが、労働が犠牲なのか奉仕なのかという重要なポイントなのです。そして、これこそがメンタルヘルスの分かれ目であると考えています。つまり、労働時間でも無く、押しつけるものでもないと言うことになります。

(少し脱線しますが、〇タミの経営は、創始者理念が立派であるにも関わらず現場がブラックであると良く語られます。これは、結局のところ相手の尊厳を無視して理念を押しつけるからそうなるのだと思います。)

そして、その分かれ目となるのが労働者の労働観であり、その職業選択がどのような価値観によってなされたか、どれくらいの自由な精神から選ばれた職業か、労働・奉仕を犠牲と感じるか、喜びと感じるかということであります。これは考え方の問題に思えるかもしれませんが、もっと深い人間観、アイデンティティの問題でもありますよく、視野狭窄で自己中心的な人間は良くないという文脈で語られますが、それよりもむしろそう言う人間を生み出す環境の問題を問題視するべきだと考えています。なぜならば、人間の自由意思や人格の成熟度はかなりの割合を環境によって左右されてしまうからです。十分に愛されて十分に与えられた、満たされた人間が自己中心的になることを想像できるでしょうか。全ての問題は、「足らない」というところから発生していると言い換えることも出来るでしょう。

ということは、これらの問題は認識の問題でもあり、内面の問題だと言うことです。物質的にどれほど豊かになっても、認識が変わらなければ、変化が起こらないのです。つまり、これからの時代の革命というのは物質の変化ではなく、認識の変化だと言うことなのです。

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