消すことで得る

世の中の現象や学びは一見バラバラに見えますが、その究極を追求したときに共通点が見られることが良くあります。

私は悟りの世界と武術、そして人間関係も全部繋がっていると思います。

宮本武蔵などの達人の境地を体得するべく研究されている日野晃先生による「武術革命」(BABジャパン)によれば、

本書を通して「武術とは?」を語っているのだが、その中で当たり前のこととして、武術とは「人との相互の関係で成り立っている」があり、それは、私が今新たに発見したものではなく、春になれば花が咲くごとく当たり前のことだ。

であれば、「相手を感じ取る」ということは、武術の技術の中でも最上位に位置するくらい大事なものだと言うことが分かるはずだ。それさえ考えられないから、日本伝統武術の価値が見えず、武術と喧嘩の区別もつかなくなるのだ。

この「さわる」がどう難しいのかと言えば、「掴む」は、自分の自己主張や自分の意思の押し付けの象徴として捉えることが出来るが、「さわる」では、相手を感じなければいけない、つまり相手を感じるためには、自分の主張や意思を消してしまわなければいけない

と書かれています。

私はこのあたりの描写のところが、たまらなく面白いと思います。

関係性として捉える

私たちは通常、体の自分を自分だと思っていて、その自分が快と思うか不快と思うか、どうしたいのか、どうしたくないのか、どう思うのか、思わないのか、そのような「自分の判断基準」を起点にして反応し、意思を行使しています(あるいは放棄しています)。

しかし、武術において前提とされているものは命がけの相手とのやり取りであり、言い換えれば「関係性」の中で戦いがあり、勝敗があると言うことなのです。決して単体の自分がどうなのか、という、切り離された個体のアイデンティティがどうかと言うことだけでは、なにも始まらないと言うことなのです。単体で筋力トレーニングしても、何をトレーニングしても、「関係性」という要素が入っていなければ現実的に使えるものにならず、所詮は「自分が正しい」というぶつかり合いにしかならないと言うことなのです。

西洋的に言えば当たり前としか見えないことが、日本ではそもそも当たり前ではなかったのです。

主張や意思を消すということは、自分が自分でなくなることではありません。予断を排除し、無限の可能性と繋がることです。ここで悟りの知恵、観術と繋がります。ここでも、「では自分とは何なのか」という課題と繋がるわけです。本当に、全てが繋がっていると感じます。とても面白いと思っています。

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