無関心

昨日、東京の都心にある国会議事堂に行ってきました。

19:30から集団的自衛権反対、戦争反対のデモがあったからです。

翌日の新聞にも出ていたように、かなり日本の中で行われるデモとしては無視できない規模になってきたと思います。

私が見たところ、若い人はそれこそ高校生から、上は70〜80のご老人まで、色んな年代の方がおられたというのが印象です。ただしデモの主導権を握っていたのは20代の若者という感じがしました。

彼らはなんのために主義主張し、誰のために戦っているのか。それは自分たち若者世代のためでもあり、そして子孫のためでもあります。自分のためでもありますし、自分以外のもののためでもあります。

思い出すこと

それを思ったとき、いつも思い出すのがホリエモンのことです。先日、瀬戸内寂聴さんと対談したときに「俺は戦争になったら逃げますよ」(参考リンク)と言ったそうですが、彼が根ざしているのは常に体の自分のアイデンティティであり、その体の自分がどうなるのかにしか興味がないと言うことでもあります。極言してしまえば、自分以外の人間などどうなっても知ったことではないということです。

これを聞いたとき、様々なことを思います。例えば、日本人は本当にこのような体の自分に根ざしたアイデンティティで生きることが自然なのかなと言うことです。それこそ草木・路傍の石にまで神が宿ると考えてきた自然崇拝の心を持つ日本人が、本当に体の自分を自分と思い、自分さえ良ければいい、自分のことだけを考えるようなあり方が似合うのかなと言うことです。西洋的なアイデンティティの捉え方で言えばもちろん、個の定義は体の自分と言うことになりますし、巷に言われるインナーチャイルドだって体の自分に根ざしたものと思われています。

引き寄せの法則も気になるところです。

私がかつて学んだのは、「戦争反対という怒りのエネルギーそのものが戦争を引き寄せる」ということでした。平和を望むのであれば、平和に意識を集中しなさいという教えです。

私はかつてこの教えを信じました。しかしどうでしょうか。今この時代において、主義主張しないことによって得られるデメリットの方が大きくなっていないでしょうか。自分は平和な過ごし方を好むと言って俗世間から離れたとしても、世界に無関心であることを決め込めば、放っておけば日本は戦争をする国になってしまうのです。

一体、自分には関係がない、無関心という風潮はどこから生まれ、そしてこの分離の考え方は本当に適切なものだと言えるのでしょうか。

無関心でいたとしても、誰かの犠牲の上に電気が作られ、安い服が作られ、誰かが原発事故の後処理をしているのです。誰かが基地の犠牲になっているのです。一体、この時代の課題に対してどのような姿勢・アイデンティティであることが必要なのでしょうか。

それは、歴史から学べるようなものではなく、新しい解決策が必要なのだと考えます。西洋発の分離的な考え方ではなく、統合を取り入れられる考え方です。私はこの新しい時代の解決策はNoh Jesuが提唱する観術しかないと考えています。新しい認識が敷衍されなければ、解決不可能な問題が山積みの時代だからです。

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