存在目的(レーゾンデートル)

先日、ターニングポイントを迎えました。

それは、自分が信じてきたものを手放したと言うことです。

もっと言えば、自分の今現在の学びの最先端である観術の理解がさらに深まりました。私は、自分が提供したいものを持ってはいましたが、それによって人生が具体的にどのように良くなるのか、そこがイマイチ極められていませんでした。

私のように、ネグレクトや虐待を受けて育った人は極めて生きるのが難しいパターンを身につけて社会に出てしまいます。言わば、生きるためのOSの初期設定が強烈なマイナス状態だと言うことです。

人生の初期段階で強烈なマイナスを経験する人は、ある種の使命感を抱きやすいと言えます。それはなぜかというと、あまりにもマイナスすぎるその幼少期・過去の経験を踏まえて(バネにして)、人生を良くしようとする原動力にしているからです。

およそ感情や思いなどの蓄積は過去の産物であり、しかしそれ故に歴史ある蓄積として、未来に向けて発信するに値する背景となると思っていました。使命感とは、過去にAという経験をしたから、Bという思いを蓄積したという因果律の中に存在します。

しかし私は勘違いしていました。観術とはこの因果律から自由にさせる認識技術だったのです。これの意味・価値は何だろうかと考える必要は、私にはありませんでした。私はこの意味を瞬時に理解しました。しかし言語化には少し時間がかかりますので、今後表現・伝達していきたいと思います。

最も簡易な表現としては、もしあなたが洗濯機を使いこなしたいのであれば、洗濯機を使う側のポジションに移動しなければならないと言うことです。人間は初期設定として、洗濯機の中に放り込まれているのです。ぐるぐるかき回され、目が回りながらも、人生とはそういうものだと思わされているのです。しかし、そのように混乱と嵐の中にいながら人生のコントロールを取り戻すことは不可能です。

才能とは、この嵐の中で培われるものだと考えていますが、自分が嵐の中にいるままではその才能が使えません。才能を使うためには、才能の外に出る必要があるのです。

自分はAという経験をしたからBを選ぶ。今までがAだったから今後はBを選ぶ。これらは、因果律の中にいる考え方です。しかし、因果律から自由になれなければ、本当に自由になることなど出来ないのです。

まず私は自分の人生で証明して、それでそれが実際に効果があり、価値があるものだと認められる段階に達したとき、再び私はこれを人に伝達したいと思います。使命からさえも自由になれたとき、真に使命に生きられるようになるのかも知れません。ゴールを設定したらゴールのことは忘れろと言われる教えのように。

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