思い込みと信念

カウンセラーの勉強をしているときに学んだいくつかのポイントの中で代表的なものの一つが、「人は皆、思い込みの中にいる」と言うことです。

例えば私などは、自分の話は聞いてもらえない、自分の話は理解されないと感じながらその家庭環境を生き抜いてきましたので、当然世の中に出ても自分の話など聞いてもらえるわけがないと思っており、自分の意見を語ったり表明することになんの価値も感じない人間になってしまっていたのです。

人によって色んな思い込みを形成していることでしょう。人から批判されないために理論武装して完璧であろうとし続けることが自分の存在を守る唯一の手段になっている人もいるでしょうし、そのようなネガティブなパターンばかりでなく、自分は常に前向きで人を励ますことで自分の価値を守り続けている人もいるでしょう。義務を果たし続けることが唯一の存在戦略である人もいるでしょう。集団論理から外れずに、枠の中で居続けることが正しいことだと思う人もいるでしょう。

思い込みとは、全て環境の中で形成された思いのパターンです。そのパターンは形成された環境がなくなった後も続き、人生が終わるまで通常継続します。それがおかしいと思った人だけがそこから出る旅に出ます。

思い込みが悪いとか良いとか、そのような観点で語ることは適切とは思いません。ただ一つ言えるのは、その思い込みによって人間関係で必ず問題が出るでしょう。あるいは、人によっては、常に問題は相手にあると考える人もいるでしょう。

「自分が正しい」と思うことによって自分の正当性を守り、それによって自分の存在を守り、価値を守ることが良いことであるというのは前近代的な考え方です。なぜなら、その、「自分が正しい」という考え方によって争いが起こり、人と人が融和できない理由になるからです。その正しさによって他者をジャッジししている限り、他者と融和することなど出来ません。その正しさが所詮、条件付けられたその人の考えに過ぎないことを知らない限り、正しさを手放せないでしょう。その背景に不安があることを知らない限り、自分が何をしているのか知ることさえ出来ないでしょう。

信念が強いことは一般的には良いことだという文脈で語られます。しかし、ヒットラーも信念が強かったと言えないでしょうか。狂った人は、その苦しい信念の中に閉じ込められているが故に苦しいと言えるのです。

故に、そこから自由になることが必要だという文脈になるのです。

「自分が正しい」という人と一緒にいて、楽しいでしょうか。

人生を謳歌できるというのは、「正しさ」を放棄した先にあるように思います。

 

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