分析的・学問的手法の限界

心理学の限界、学問の限界とは、分析的手法の限界でもある。また、たとえ問題があったとしても、そこに答えを打ち出せない限界でもある。

例えば、様々な事情によって精神的に健康とは言えない家庭環境で育ってしまった人間が、いかにそこから力を取り戻すのか、そこに答えを出せない限界が学問の限界だと考えている。

また逆に、「〇〇が答えだ」というスローガンを抱え、自分たちの考える「正解」をベースとしながら布教活動をしている人たちもいる。その人達はその経緯と過去の経験・学習したものによって自分たちの正解と信じる信念を持っている。

それはほとんど効果的だと信じられる一面もあるが、ただ残念なことは、どんな価値観であれ、それは条件によって変わる価値観の一つに過ぎないと言うことであるからだ。それがクライアントにとって最善の答えとは限らない。よって、向き合うカウンセラーが無限の可能性に生きてない限り、必ずクライアントの可能性を制限する結果にしかならない。また逆に、価値観を放棄し、向き合うことを放棄してしまえば、ただ無責任なだけである。

答えとは何か

パートナーが得られればそれが幸せだという人がいる。しかし、それは本当でしょうか。それは「答え」なのでしょうか。それよりも人生と命をかけて何かに打ち込んでいる方がいいと考える人もいるかも知れません。

価値判断の答え、意思決定の根拠をどこに求めるのでしょうか。インナーチャイルドでしょうか。しかし、インナーチャイルドに従うことによってエゴベースの考え方になり、それによって人生の展開は開けるように見えるかも知れませんが、それは「答え」なのでしょうか。それは「なぜ」答えなのでしょうか。

どこかの偉い人やどこかの心理学者が「集団に貢献することが最も幸福を得られることである」と言えば集団に貢献するようになるのでしょうか。誰かがそう言えばそうするのだろうか。意思決定の根拠は、誰か権威のある人が言うことに依拠するのだろうか。あるいは、「自分」の感覚であったりエゴベースの考え方なのでしょうか。

要は、答えを求めるが故に答えにしがみつき、そうであるが故に自分の生き方が正解だと吹聴し、宣伝し・証明したくなるのです。私から見れば実につまらないことです。誰かの正解を証明するために私たちは生きているわけではありません。

ではどうするのか。結局、あらゆる「答え」から自由になり、無限の可能性に生きるしかありません。

可能性を奪われ、力を奪われた人間は、再び正解の名の下に価値観に縛られるべきではないと思います。「自分が正解である・正義である・正しい」という力学から自由になり、価値観と自分との癒着から自由になったとき、人間は本来の自由に立ち返ることが出来ると信じています。

私はそれが伝達できるようになりたいのですが、残念ながら師匠がいないため、近いところまではきているのですが、後もう少し、表向きの活動は中断しています。

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