意思決定の出発点

先日、ある公務員の方とお話しすることがありました。書ける範囲は限られますが、話の要点としては、

1.ある地域に保育所の建設計画がある。

2.役所として、その建設に際した住民説明会を開いた。

3.なんと、その地域の老人が中心となって反対意見が相次いだ。

4.反対意見の骨子は、「子供はうるさいから嫌だ」というものだった。

これを聞いたとき、私は世も末だと思いました。確かに、個人の意見は尊重されなければなりませんし、個人の意見を表明すること自体は悪いことではありません。それに、意見そのものにも善悪はないでしょう。

しかしながら、この世界は何によって成り立っているのか、ということに私は思いを馳せます。

例えば、保育園が必要な世代と言えばまだまだ若者夫婦の世代になるでしょう。20代〜30代前半までの家庭と考えるのが一般的だと思います。その世代の労働人口が、例えば源泉徴収で強制的に社会保険料として年金保険料を納めているわけです。そして、その保険料によって老人世代が年金を受け取っているわけです。つまり、決して若者世代の生活は老人世代の方々にとって無関係ではないわけです。

そう言う考え方は、至るところで通用します。米軍基地の殆どは沖縄に駐留していることで、本土の殆どの人はその影響について知ることなく、自分には関係がないと思いながら生活しています。東京の電気だって、福島県で作られていたと言うことが2011年の大災害でよく知られることとなりました。福島県の被災者の方々は、今もなお、終わらない放射能との戦いの中で生きているわけです。

東京に住んでいると、そういうのは関係ないと思えてしまう一面もあります。それはそうです。通常の日常生活を送っている限り、目にもしませんし、意図して自ら取りに行かない限り、そのようなニュースソースも積極的には届いてこないからです。

安く購入できる服にしても、誰がどのような労働環境で作っているのか、通常は思いも馳せないでしょう。でも、その結果物だけを目にして、安いからという理由で購入しているのが一般の生活者感覚です。

誰かが犠牲になる。でも、その犠牲者が自分でなければそれでいい。その感覚こそが、今この地球上の思想基盤として限界ではないか、少しずつその考え方を理解する人が増えつつあるのを感じます。思考の論拠・アイデンティティーを次元上昇させるというのはこういうことであると感じます。そのような精神性を高める行為は、今までの時代においてはそれほど必要とされなかった気がします。

個人的なエゴに基づいた思考の方が、個人主義的思考の方が、つまり、西洋的思考方式の方がカッコイイ、そんな風潮がずっとここ何十年も、この日本に根付いてきたと思います。しかし、それも限界に近づいていると思います。

この先、世界がどうあればいいのか、どうなればいいのか、そういったことを日常生活の延長線で考えられるような人がこの世界に溢れるようになったとき、この世界は次のステップに進めると思います。そして、そうでなければ、次のステップにいけないと思います。つまり、今の時代、この地球は極めて珍しい成長段階を迎えていると言えるのではないかと思います。

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