「自分」がある

いつもながら、自らのテーマ・課題であるが故にそのポイントが気になるんだなあと思いながらこれを書きます。毎回書かなくても前提として含まれていることですが、ここで訴えていることを私自身が出来ているとは思っていません。私自身にとって最も遠いものであったからこそテーマとなり、その事が気になるという事でもあります。

さて、かつて私がとても格好いいと憧れていた男性がいて、その人がよく、「自分をしっかり持っている女性が好きである」と言うことを言っていました。例えばよくモテる男性で言えば、しっかりと「自分」を持っているタイプの方がよく好まれたと思います。

会社でも、体育会系のところは別でしょうけれども、「自分」を持っている人の方がワンランク上の仕事の取り組み方をしていそうです。

なぜなら、付和雷同とは自分の中心軸がないことであり、それゆえに積み重なるキャリアのようなものが出来にくいと考えています。

さて、「自分」を持っていることは”いいこと”なのでしょうか?

私はずっと、いいことだと思ってきましたし、そうであるが故に、そうできない自分を責めたりもしてきました。

デメリット

逆に、常に自分があることによるデメリットは何でしょうか。

常に自分があるということは、言い換えれば自分の意見があると言うことであり、判断基準があると言うことでもあります。

この状態では、相手の話を聞くときに問題が生じます。

問題というか、自分は問題と思わないかも知れませんが、相手に取ってみれば常に価値判断され、値踏みされ、ジャッジされると言うことになり、あまりいい気分のするものではありません。

AさんにはAさんの価値観の成立根拠・成立過程・背景があるのであって、Bさんにも同じだけの背景があるわけです。

成立背景が異なるのに、一方の価値判断基準によってジャッジされることは、ある種の暴力的なものとなります。

相手を理解すること

相手を理解するということは、いくつかのレベルがあると思っています。

しかし、単純化すればたった2種類しかないと思います。

それは、「自分がある」状態で聞くか、「自分がない」状態で聞くかの2種類です。

詳細なところについては省き、ここでは一つの例を挙げて終わりにしたいと思います。

新聞を賑わす事件

新聞(やニュース媒体)を観ていると、色々な犯罪が日々報道されています。

平均的な生活を送っている人から見れば信じられないような凶悪な犯罪があったり、殺人事件があったりするでしょう。

「自分ならそんなことはしない」

そんな風に思うこともあるかも知れません。

しかし、「自分なら」というのは、すでに人格が形成された後のあなたがそれを言うのはフェアではないと思います。

本当にその環境に生まれ育ち、否応なくその環境の影響を受け、時に無力感に苛まれ、絶望感に覆われ、何の希望もなく育ったとしたら、一体あなたに何が出来るでしょうか。相手の立場に立つと言うことは、その瞬間だけ立場を入れ替えるという事もあるとは思いますが、相手を本当に理解すると言うことは、価値観・人格の形成の背景全てを理解すると言うことだと思います。

問題のない環境で育った人が問題のある環境で育った人が犯す犯罪・事件を一方的に裁くのは、フェアではないと思います。それは強者の論理であり、暴力です。

裁いてはいけないと言っているわけではありません。本当に問題を解決したいと思うのであれば、問題に光を当てるのではなく、その背景に光を当てなければならないと思うからです。

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