知っている世界

例えば、今私たちの周りには「空気」があります。

しかし、その存在は当たり前すぎて、通常意識することはありません。なぜかというと、「在る」ことが当たり前なので、認識することが出来ないからです。変な例え話と思うかも知れませんが、地球人同士でわざわざ空気があることを話題にすることはあまりないでしょう。

しかし、地球から出たら話は別です。いったん大気圏外に出てしまえば、宇宙空間には空気はありません。これもまた思考実験のようなものですが、宇宙空間にいることが当たり前の人から見れば、つまり、空気が「ない」ことが当たり前の視点から見れば、地球という星を認識するときに当然空気が「在る」ことを認識するでしょう。

何が言いたいのかというと、「在る」ことが当たり前の視点から見ると気づけないことでも、「ない」ことが当たり前の視点から見れば、認識可能になるのです。私はこれを「視点」という言葉であえて表現しましたが、これは観術では「観点」という言葉で表現しています。

なお、観術が伝えている世界はあまりにも究極の世界であるため、私はそれを通常の日常を生きる人にも平易に伝えられるように、かみ砕いて伝達・表現することを少し意識しています。

さて、話を戻します。

地球人同士で会話するときには、「空気」の存在については通常意識しないことを先ほど書きました。しかし、地球人と他の惑星Aの住人が会話するときにはどうなるでしょうか。地球以外の惑星にもどうやら成分の違う大気があるようですが、例えば、なんの疑問もなく地球人が「空気」と表現し、惑星Aの住人もまた「空気」と表現したとしても、言葉は同じようでいて、その意味するものや成分のパーセンテージは違うかも知れません。

なるべく話を大きいところから書きましたが、国と国の間でも同じようなことがあると思います。国の発展の歴史、国によって異なるアイデンティティにより、その背負っている歴史背景が全然違います。

ようやく個人の話へ

そして。ようやく個人に関係するところまで話を矮小化していきますが、例えば家族の間でも「観点」は違います。会社の中でもそうです。

それぞれの個人の成立背景がバラバラであるため、価値観の立脚点が家族の中でもバラバラなのです。従って、例え家族の中でも異なる価値観の人間同士が協力しなければなりません。

様々な協力形態があります。私は今、「異なる価値観の人間同士が協力」と書きましたが、そもそも自分の価値観さえ放棄しているような人もいます。自分の価値観を押し付けたり、それによって支配しようとする人もいます。何が言いたいのかというと、今の世の中で「異なる価値観の人間同士が協力」するということは、大変難しいことが分かると言うことです。そもそも、今の世の中は、協力が前提ではなく、支配が前提かも知れません。

私の生まれた家庭環境では、「私」という人間性は徹底的に否定され、無視されてきました。誰が主体かも分からず、まるで皆が犠牲者のようでもあり、自己を放棄することで共同体が形として維持されてきました。しかし、私はそう言うのが大嫌いでした。ですが、その環境によって、私自身もその環境に同化することによってしか生き延びることが出来ませんでした。

理想のコミュニケーションのイメージ

私にはずっと、理想のコミュニケーションのイメージがあったんだと思います。しかし、この世界ではそれを実現することは不可能なのだと、無意識深くで諦めてしまっていました。それを、究極の技術・教育によって本当に実現しようとしているのが観術創始者のNoh Jesuであり、彼が提唱する理想の社会というのが、尊厳民主主義です。

価値観、背景が異なる人や国は、単体であれば別に問題はありません「単体」を主人公にすれば、その単体によって全体を支配すれば良いのです。今まで世界はそのようにして戦争を繰り返してきました。個人の間でもそうでしょう。しかし、尊厳民主主義とは、全員が主人公になる全く新しい世界なのです。犠牲者が犠牲者でなくなる、究極のALL主体化です。

AさんとBさんが協力するときに、自分の考えが「当たり前」だとか「正しい」だとか思っていたら、協力関係など築けるでしょうか。片方が合わせたり屈服したりして表面上は協力したように見えたとしても、どこかモヤモヤが残らないでしょうか。

そのような状況を乗り越えるためには、自分の価値観の成立背景を客観的に把握できる必要があります。なぜならば、その価値観が「在るのが当たり前」という立ち位置で語る限り、争いが避けられないからです。「ないのが当たり前」の視点から見たときに、初めて自分の価値観が条件状況によって成立したことを客観的に把握することが出来ます。

「ないのが当たり前」の視点で見ることができる者同士であれば、自分の考えが「当たり前」「正しい」などという主張の仕方はしないでしょう。自分の考えが永遠不変でも真理でも何でもなく、条件によって成立している相対的なものだと言うことを知っているからです。

ここに来て、ようやく表題に戻ってきます。自分の知っている世界、認識世界は絶対ではありません。その事を知ることが平和への道であり、自分の知っている世界から自由になることが、無限の可能性に生きることと繋がってきます。「正しさ」を放棄できたとき、人はようやく愛に戻ることが出来ると感じています。

今この世界で起きている問題は、「誰かの正解」による支配によって解決可能と思いますか?私は、それは違うと思います。価値観・思想体系による「正解」を超える真理によって革命が起きたとき、個人・国・世界という様々なレベルで問題が解消していくものと思っています。

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