条件のない愛情とはどこに行き着くのか

私は、人格に問題が発生する原因・起因と、その対策・解決方法についてずっと人生を通して追求してきたとも言えます。

いじめを始め、人間関係に問題が発生する原因は、私の立場から言えばほぼ家庭環境が原因です。家庭環境でないのであれば、育成環境・生育環境、何とでも呼べばいいでしょう。その当人がどのように世界認識するようになったのかという原点がどのように形成されたのか、という部分に当たります。

心理学や子育てなどの一般的な書物や情報を読み進める中で、子供の心が健康的に発育するためには親の愛情が必要不可欠であると言うことを知識で知りました。(私にとってはそれは知識でした)そして、愛情には

  • 無条件の愛情
  • 条件付きの愛情

の2種類があることを知ったのです。(もちろん、もっと悪いケースもあります。)

無条件の愛情

私は、その最上位である「無条件の愛情」とは何なのか、ずっと何十年も追求してきました。

そしてやがて、「条件がない」ということは、何らかの判定基準があってそれに合致すれば〇、合致しなければ✕、という、価値基準に基づかないものであると言うことが分かってきました。

そしてまた、価値観に基づかないと言うことは、逆にまた、自らを正当化するために知識で武装化したり、知識を収集して「知っていることを増やして」いる人ほど困難になることも感じました。不安を直視せず、自らの不安を受け入れることを出来ず、ひたすら自分を守ることに拘泥している人は愛になどなれないことも分かってきました。

通常は、この世界では価値観があり、それによって価値判断され、〇と✕、あるいは△など、判定されるものです。ここでは分かりやすく、〇と✕にしましょう。それがいわゆる二元論的な考え方の入り口になります。

子供にとって、親の庇護や愛情を受け取るために、親の価値観から見て〇になることは非常に大事なことです。これは人間が極めて未熟な状態で生まれてくるために、愛情を受けることが生存を維持するために必要だという生存本能と直結しているからでは無いかと思っています。

通常の親は価値観がある状態で子供と接しますから、子供は親の価値観に多大な影響を受け、その条件・価値観を前提条件として自分の人格・OSにインストールしていきます。ここで親の価値観はそのまま子供に受け継がれるわけです。条件付けでしか愛せない親の元では、制限付きの価値観しか持てない子供が育ちます。

その一方で、ごく稀に条件のない、無条件の愛情を示すことの出来る親もいるようです。もちろん、0か1かの極端なものでもないでしょうから、無段階に様々なレベルの人がいるでしょう。私は、五体不満足の著者(乙武 洋匡さん)やアインシュタインなどが代表的に思いつきます。

身体的条件を満たせばOKだと思っている親であれば、乙武さんの親は子供を愛せなかったでしょう。

学校に適応できることがOKだと思っている親であれば、アインシュタインは親からも✕な存在だと見なされ、その可能性を発揮できなかったのではないでしょうか。

生育環境による不公平

私は、生育環境にどのレベルの愛情が存在するのかによって人間の発揮できる能力に差があると考えてきました。それと共に、その不公平さもすごく感じてきました。人は生まれてくる家を選べないのに、その家庭環境によって様々に抑圧を受け、幸せになることも出来ない事もあります。生まれてくる家や環境まで自己責任だというのでしょうか

私はそこだけがどうしても納得が出来ず、条件付き・もしくはそれ以下の愛情しか受けられず(あるいは全く受けられず)、不完全にしか自分の可能性を発揮できなくなった人が、再び自分の可能性を取り戻せる方法を探してきました。しかし通常の方法であれば、結局自分を✕だと捉えて〇へと変化しようとしているだけであり、それだと結局は自分のドグマを克服できないでいたのです。

つまり、最初の問いはシンプルでしたが、答えに至る道はかなり究極の道なのだと言うことが分かりました。条件がないと言うことは〇✕がないということです。〇✕がないということは、二元論ではないと言うことです2ではないということは、1と言うことなのです。正直、ここまでの道になるとは思いませんでしたが、ようやくたどり着いた道は究極の場所でした。

それは学問や知識では到達できない場所だったのです。

私は、私自身がもっと深くそこに到達すると共に、それを伝達し広めることが自分のミッションだと思っています。

しかし、究極の自由にたどり着いた人が行使するミッションは、堅苦しいものでも何でも無いと思います。大道無門、大自由なわけですから。

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