「私」とは何か

一般的に、人は幸せを求める生き物であると言われている。

人生の目的は、幸せになることだと、よく言われるし、それに異論を挟む余地はあまり無さそうに感じる。

しかしながら、幸せになる主体が何者なのかは、実は曖昧模糊としているように思う。

それが、「私とは何者か」という問題である。

個人的、英語で言えばpersonalな幸せ、欲求、願望達成は果たして幸せと言えるのだろうか。

自分一人だけが幸せで、それ以外の人は幸せでなかったとしても、自分一人だけが達成していればそれで幸せになればOKなのだろうか。

そもそも、「」が幸せになればOKなのだろうか。

身体的な境界線を境目として、この肉体の自分を「私」と捉える認識方式は、広く信じられている。

しかし、肉体的な「私」は、本当に、隣にいる人が不幸でも苦しんでいても、全く無関係でいられるだろうか。無関心でいられるだろうか。そもそも、自分だけが幸せでそれ以外の人が不幸な状況があったとして、それを幸せだと捉えられるのだろうか。

「私」の認識が狭ければ、ただのエゴイストになる。それに、エゴイストの幸福追求における認識の原点は欠落と不安、恐怖にあるため、その原点から自由にならない限りは幸福になどなれない。何を手に入れても幸せになれないと言うことだ。

「私」の認識が広ければ広いほど、人の幸福度は広まる。アイデンティティが大きいという言い方も出来る。

つまり、何かを求める以前に、求める主体とは何かという定義がすごく大事であると言うことだ。

ユングは集合無意識について言及した。人と人は分離しているのではなく、繋がっていると言うことである。

しかし、繋がっているというのはただの学者の一説に過ぎないのだろうか。

怪しいスピリチュアルなのだろうか、それとも学問的事実なのか。

実は、物理学ではすでにこの世界はたった一つの素材によって出来上がっていると言われている。

証明は出来ていない。

だが、スピリチュアルの説明よりはマシだと思う。なぜなら、神や天使などの説明方式は若干信じる世界が混ざってくるからだ。

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