「出会え」ない限界

確か、スティーブ・ジョブズの言葉だったでしょうか。

その商品を見るまで、それが欲しいとさえ思わない。

というようなことを言っていました。

画期的な新商品というものは、既成の概念や常識を遙かに凌駕しているため、商品開発の時に消費者アンケートからその画期的商品を生み出すことは不可能だと言うことです。ニーズを調査したところで、その商品は生まれないと言うことです。

だけれども、その商品を目にしたとき、実際に触れてみたとき、「こんな商品が欲しかった」そんな思いを抱かせるものです

私は、Noh Jesuが最初言っていたことの意味がさっぱり分かりませんでした。

それは、「人間は会っていても出会えていない」ということです。

この意味が分かるでしょうか。

出会えない限界

人間は、目の前に人がいて、向き合って、話していても、出会えていないと言うことです。

目の前に相手がいて、向き合っていたとしても、自分の価値判断・価値観・思想体系・色眼鏡を通してしか相手を見ることができないと言うことです。

無意識に相手を自分の価値観を通してしか相手を見ることができず、ほぼ自動反応で相手をジャッジしていると言うことです。相手を「そのまま」理解できず、色眼鏡を通してしか見ることができないと言うことです。

それはどういうことなのかというと、制限的観念で相手を見ていると言うことでもあり、相手を無限の可能性で見ることができないと言うことです。

それはそうでしょう。自分の認知できない可能性を相手の中に見ることは容易ではないからです。

自分の認知できないものは、否定したくなるのです。

それはどういうことなのかというと、相手と出会っているのではなく、自分の観念の中から出られないと言うことであり、例え相手が目の前にいたとしても、出会えないと言うことなのです。自分の認識方式から出ることが出来なければ、相手と出会っているのではなく、自分と出会っているだけなのです。何も分からず、何も理解できず、投影に対して反応したり、決め付けたり、支配・コントロールしようとしたりしているだけなのです。出会っているのが自分であり、相手と出会えていないのであれば、それは果たして出会えていると表現できるのでしょうか。

 

私は、その場の構成員が全員思い込みの中にいて、とても寂しい環境で育ちましたので、出会いと言うことに関してとても絶望していたのだと思います。全員が思い込みの中にいて、お互いを理解することを放棄し、役割に専念していれば集団の維持は可能かも知れません。しかし私は、そんな寂しいコミュニケーションしか出来ないのは、折角人として生まれてきて、とても勿体ないことだと感じます。

自分の思い込みの中から出ることが出来ず、誰とも出会うことが出来ず、それでも生きていくことは出来ます。

井の中の蛙に過ぎないのに、「自分の信念を貫く」などと歪んだ信念強化をすることもあるでしょう。

もちろん、人類はほぼこの段階に囚われてしまうメカニズムがありますので、やむを得ない人類共通の限界であるとも言えると思います。

信念から自由になる

自分の信念からでて、思い込みから自由になって、自分の観点や視点をゼロ化できたとき、ようやく本当に相手と出会えるようになります。色眼鏡を外せたとき、相手をそのまま理解できるようになります。

その意味・価値が、残念ながら体得するまでうまく伝達できないというのが難しいところでもあります。

人類の99.9パーセントが当たり前だと思っているコミュニケーション方式から外れると言うことは、今のこの時代ではまだ早い、それ故に、パイオニアやアーリーアダプターと呼ばれる人たちから変化が起きるのだろうと考えています。

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