「アナと雪の女王」に見る「愛」

人はなぜ恋愛し、結婚するのでしょうか。

小説などでは人が人を好きになって恋愛したり、結婚したりしていますし、そのように見えます。また、そのような個人の意思を超えた関係性というものもまだあるかも知れません。私から見れば、小説にあるような美しい物語もあれば、まるで夢遊病者のように誰かと恋愛したり結婚したりしている人もいるように見えます。

題材はいくつもありそうですが、今回は表題の映画「アナと雪の女王」をベースにしてについて書いてみたいと思います。なぜならば、結局のところ、私が人生をかけて追求してきたテーマとは愛という一言に尽きるからです。

「アナと雪の女王」

この映画の中で、愛についてどのような描かれ方をしていたのか。私の観点から見たときに、恋愛という枠組みの中での愛の幻想から、より本質的な愛への変遷が描かれていたように思います。

ストーリー的な事に関しては映画を見ていない方も想定して書きませんが、最初の段階においてアナは、真実の愛とは恋愛の愛だと考えていました。そして、そこで描かれる恋愛の目的とは、「自分が幸せになること」がメインでした。

しかしながら、最終的にこの物語においては、真実の愛とは自己犠牲の愛だと描かれています。自分の命を捨ててでも守りたい・助けたいという無私の行動が結果的に真実の愛へと到達することになり、アナ自身を救うことになります。

「誰」が幸せになるのか

私は、愛とは最終段階として自己犠牲的な高次な認識へと変遷すると考えています。

それは、結局、この物語の前半で語られるような「自分」が幸せになるという恋愛はエゴベースの愛であり、相手を愛しているのではなく自分を愛しているだけだからです。(それがいいとか悪いとかという次元で書いているのではありません。もし、そのように考えたければ、それも「あり」だという立場であるとお考え下さい。)

私個人で考えたときに、私はかつて自分の親から、「老後の一人は寂しいから結婚した方がいい」と言われました。しかし、その考え方がどうしても納得できず、自分なりの答えを探し続けてきました。

そして、その後随分整理が進みその部分を言語化できるようになってきたのですが、結局その考え方は

孤独=✕

という考えから来ており、✕を避けるための選択肢だという考え方が納得できないという結論に到達しました。「本当にそうしたいからそうする」のではなく、「✕を避けるためにそうする」という考え方は、私はあまり好きではありません。

このテーマは、私の観点から見たときに、とても面白いアイデンティティの問題に見えます。つまり、個人主義的に自分=身体を境界線とする自分だと捉えていれば、その境界線の外側=他者のために命をかけることは馬鹿げたことだと言うことになります。しかし、アナはその一見境界線の外側であるエルサのために自分の命を差し出そうとした。これは自己犠牲的な考え方です。

しかし、とても面白い部分だと思うのです。私は今、「自己犠牲的」だと書きましたが、そこで言う「自己」とは身体を境界線とする自分(=自己)を指しています。しかし、その境界線を越えたとき、物語では真実の愛に到達したと描かれているのです。

犠牲なのか

さて、先ほど私は「犠牲」という言葉を使いましたが、ではアナは犠牲者意識でアナを救おうとしたでしょうか。ここが一番の根幹になるところだと思っています。

例えば、この部分だけを取り出して

愛とは自己犠牲的なもの

などと格言のように扱い、教えたり誰かに押し付けようとしたりしても、きっとうまく行かないと思います。なぜなら、自由意志で選択しない限り、そんなものを強要しても本質から離れるだけだからです。最高に自由な心の状態で、やってもOK、やらなくてもOKな無条件OKな心の状態で意思決定できない限り、自己犠牲が喜びになることはないと思います。

その意味で、心の自由さは極めて重要な要素になってくると思います。

さて、今回は特に結論を書こうとは思ってませんので、この辺にしたいと思います。愛については書けることがまだ他にもありそうなので、また別の機会に。

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