命をかける

いきなり「命をかける」というと、何事かと思われるかも知れませんが、このような考え方はとても大切だと思っているので、書こうと思いました。

まず、この言葉を聞くと、一般的なイメージとしては危険な、安定的なものを連想しないでしょうか。それは、戦後に訪れた平和の中にいる日本人の平均的感覚としては、あまりないものだからではないかと思います。例えば、、、毎日会社に行って給料をもらって、休みの日は趣味に費やして、結婚するかも知れませんし、しないかも知れませんが、そのようにして日々が過ぎていき、やがて死を迎えます。このようなサイクルを「命をかけている」と呼ぶことが出来るでしょうか。

一方で、川で溺れそうになっている誰かを助けるために身を挺して激流の中に飛び込む、、、こういうドラマチックな行動は命をかけているという風に表現しやすいかも知れません。

時間の使い方

その人が意識的であれ、無意識的であれ、誰しもに平等に与えられているものが「時間」だと思います。人間の命は有限ですから、時間=命であると言い換えることもできると思います。従って、その人が時間をどのように費やしているのか、意識がどこに向いているのか、それがその人にとっての命の使い方という風に言うことが出来そうです。

必ずしも、ドラマチックな行動だけが命がけだというわけでもないと思います。

そして、誰でも平等にやってくるものが(肉体の)です。ここからは誰も逃れることが出来ません。

やがて必ず死によって無に帰するのなら、生きているうちに何をするのか。それこそが何に命をかけるのかと言うことだと思います。それが具体的に何であるのかは問題ではないと思います。それがその人にとって重要なことであるならば、何でもいいと思うからです。

死の恐怖の克服

面白いもので、いつか必ず訪れる死を論理的には避けることなど出来ないのに、それでも避けたいと思うのが人情でもあります。

出来るだけ安全な方がより長く生存を維持できるという考え方は、人間の持つ本質的な生存欲求でもあるのでしょう。

しかしながら、安全=長生きという生き方によって本当に自分が生きたい人生を生きられるのかというと、それはまた違ってくるように思います。

かつて日本の武士道には死を克服することが求められてきました。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉もありました。これは、私の観点ですが、死の恐怖を克服することで本当に自分が生きたいように生きることが出来る。そういうことを指したのではないかと思います。

これは私の思考実験に過ぎませんが、例えばタバコがあります。一般的には健康に害があるため、吸うべきではないと考えられています。しかし、命を削ってでももし吸いたいと考えるのであれば、果たして吸うことが望ましいのでしょうか。それとも、そうではないでしょうか。本当にやりたいことをやる、というのは、ある種死の恐怖を克服することとセットなのかも知れないなと考えています。

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