失われる主体性

これはある人(ここではAさんとしましょう)から伺った話です。

Aさんは、軽微な交通違反をしました。右折禁止の標識に気付かず、曲がってしまってから警官に止められて違反キップを切られたそうです。

違反が発生した事実には争う気はありませんでしたが、Aさんは警官の態度がとても気になりました。なぜならば、件の警官はずっとそこで見ていて、まさに交通違反が発生する瞬間もそこにいたにも関わらず傍観していて何もしなかったからです。違反が発生してから車を止め、切符を切るというのはおかしいのではないかと思いました。

Aさんは別に悪気があって違反をしているわけではありません。もちろん、標識を見落としたことは落ち度にはなるでしょう。従って、警官のやっていることは法律に従っているので間違っているというわけでもないでしょう。しかし、なぜ違反防止という観点で行動しないのでしょうか。右折のウインカーを出してから実際に曲がるまでに多少の時間はありました。その時に止めようと思えば止められたはずです。しかし、警官は違反の発生を止める気はなかったのです。

Aさんは警官に言いました。「どうして違反防止の観点から事前に止めてくれなかったのですか?」しかし、警官の答えは答えになっておらず、言っても無駄な相手だと悟り、Aさんはそれ以上言うのを止めたそうです。かろうじて理解できたのは、その警官が言いたいのは自分には決定権がなく、やれと言われたことをやっているだけである、ということでした。

主体性を失う

警官の話を聞いていると、まるで自分には主体的意思決定をする権利がなく、命令に従うだけの存在である、という風に言っているように聞こえます。しかし、この警官だけに限らず、日本という社会システム、会社の中の意思決定構造でも同じことが起こっていると思うのです。

そして、このことについて考えるとき、いつも思い出す事例があります。それは、かつてドイツのナチス政権において行われたホロコーストです。この中でアドルフ・アイヒマンという人は40万人ものユダヤ人をガス室に送り殺害しましたが、後の裁判で彼は「自分は命令に従っただけで責任はない」と述べたそうです。

責任主体

上の事例で出てきたアドルフ・アイヒマンという人はシンボルのように扱うことができると思います。なぜならば、今の日本でも同じように考えている人が多いように見えるからです。会社という組織の中で、多くの従業員達は同じように考えていませんか?

自分には責任がない。また逆から見れば、自分は自由ではない。自分は意思決定主体ではない。

彼を責めることは簡単です。「いい大人なんだから、もっと自立しろ。」そんな風に責め立てれば、さぞかし自分は上に立った気持ちになれるでしょう。

しかし、私はこのテーマについてずっと追求してきました。果たして、人は、自由に意思決定できるほどに心は自由なのでしょうか。

意思決定の自由さ

私は逆に、ほとんどの人は自由に意思決定できるほど自由ではないと考えます。なぜならば人は、生育環境によって条件付けられ、制限された観念体系を持ったまま大人になるからです。無条件に無限の可能性を発揮できるように育てられた大人など、殆どいないのではないでしょうか。

その文脈で考えたとき、アドルフ・アイヒマンが語っていることは、彼の観点から見れば正しいのです。彼の世界観においては、命令に従うことが絶対だったのです。その世界観は幼少期に構築され、そこから自由になることは彼にとっては不可能だったのです。

私の観点から見れば、自由でもない人に責任だけ押し付けるのは間違ったことだと思います。

話は戻り

では、話は戻りますが、みんなが隷従者で、自由な人がどこにもいなければ、一体この世界はこれからどうなっていくのでしょうか。この未曾有の政治混乱の時期に、何も出来ないのでしょうか。誰が主体になるのでしょうか。心の自由は取り戻すことが可能なのでしょうか。

そう考えたとき、観術の持つポテンシャルがいかに無限大なのかと思います。この希望がなければ、私はこの世界に絶望しかないと考えていたに違いありません。

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