おもてなし

おもてなし」という言葉は、大辞林によれば”「持て成し」を丁寧に言う語”だと定義されており、さらに、「持て成し」とは何か調べると、”客に対する扱い。待遇。”等と出てきます。「持て成す」という言葉であれば、”ご馳走を出すなどして、心を込めて客を接待する。”となります。

さて、言葉というものは本来の意味を辿るだけでなく、さらに美しい次元に昇華させることもあって良いと考えています。

以前、人から聞いた話をここに書きましょう。

表+無し

これは言葉遊びの一種かも知れません。しかし、聞いた私がとても納得したことなので、書いておきます。

心を込めたサービスとは何か、という定義をするときに、そのサービスの提供者とそのサービスを受ける側のという2つの立場があります。

ここで、もし、提供者が判断基準の主体だったらどうなるでしょうか。例えば旅館だったらどうでしょうか。Aというサービス、Bというサービス、それらを、自分基準で良いものと考え、相手の状況を無視して押し付けることになりかねません。客は、もしかしたらお腹が空いていないかも知れません。過剰なサービスを受けることを望んでいるかも知れませんし、あるいは放っておいて欲しいと思っているかも知れません。

客のニーズを全く無視して、自分が良かれと思ったものを提供するとすれば、それは果たして心のこもったサービスと言えるのでしょうか。それは良質なサービスと呼べるのでしょうか。

そのような「あり方」をだと定義します。なぜなら、とても自分本位であり、相手のニーズよりも自分の考えの方が主導権を握っているからです。

裏方に徹する

さて、それに対し、「あくまで裏方に徹する」というサービスの提供の仕方があります。あくまで自分は裏方であり、主人は客であり、客の意向をくみ取り、客のニーズに応えるということを最上位の価値観だと捉えています。自分の存在感を前面に押し出すのではなく、あくまで存在を消し、客の望みを叶えることを最重要だと考えるのです。

ここでは、客が判断基準の主体となっています。客がどう考えるか、どう感じるかが最も重要だとされているからです。

私は、この2つの対立するあり方を聞いたときに、後者の方がより日本古来のあり方に近いのではないか、と思いました。特段の根拠があるわけでも、経験があるわけでもありませんが、「日本古来の美しいおもてなし」とは何かと考えたとき、あまり自分の考えや主張を前面に押し出すようなものではないと、私は思うのです。(これは私の観点から見た解析ですので、別に正しいかどうかということを扱ってはいません。)

存在を消す

では、「存在を消す」というのは、自分の考えや感情を否定して押し殺し、相手の隷従者になることなのでしょうか。誇りを捨て、奴隷に成り下がることなのでしょうか。ここが非常に大きなポイントになってくると思います。これは、アイデンティティの問題だと思うのです。消すことは、否定でも無視でもなく、より大きなアイデンティティを選択することだと、私は思います。

ビジネスの世界では、いまだ「自分の存在証明」をするためにお金、立場、名声を求める人が多いように思います。でも、それは私の観点から見たとき、「おもてなしの心」が欠けているな、と思うのです。そこで、結局一番最初の動機に戻ってくるのだと思います。自分は何者で、何をする存在なのか。その理由、動機は何なのか。そのアイデンティティの問題は、一生ついて回る問題なのだと思います。

癒やされない傷と向き合わないままお金と現実の世界で自分の存在証明をしようとしている人は、過剰に自分の正しさや存在証明、価値証明に走っているように思います。それがいけないというわけではないのですが、✕出発のままでは何をしても絶対に癒やされることはないと思うので、苦しいと思います。現実世界で何を達成しても、手に入れても、最初の動機から自由で無い限りは決して癒やされることは無いからです。

過去の経験からも自由、因果から自由に認識の出発をするというのは、悟りの境地でもあります。ですから、私は悟りの価値、観術の価値を伝えて行きたいのです。

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