真理が人を癒やす

「禅マインド ビギナーズ・マインド」(鈴木俊隆、松永太郎、サンガ出版社)という本があります。かのアップル社の創始者スティーブ・ジョブズが愛読した禅のバイブルです。

この本を読んでいると、「無」「大いなる私」などという神秘的な言葉がよく出てきます。馴染みのある人にはよく聞く言葉かも知れませんし、また逆に馴染みのない人にはさっぱり興味のない言葉かも知れません。

そもそも、学問的見地から見れば、「無い」ことを研究の対象にすることが出来ないので、知的観点から言えば非常に難しい概念かも知れません。

解決の定義

さて、昔から私は「人が癒やされる」ということがどういうことなのか、ずっと探求してきました。自分自身の闇が深かったために、精神科に行ってみたり、民間療法に行ってみたり、カウンセリングを受けてみたりしましたが、私が満足を得られるものはどこにもありませんでした。私自身が自分自身の状況を説明することさえ不可能でしたし、とにかく、果てしなく苦しいにも関わらず言語化さえ出来ず、そもそも、どうなればOKなのかさえ、自分でも分からなかったのです。

人がもし、カウンセリングを利用するとして、一体どういうことが考えられるでしょうか。

もし、不登校の若者を相手にしたとき、カウンセラーが「学校には行くべきである」という価値観を持っていればどうなるでしょうか。まず第一に、クライアントの状況は✕であるという前提からコミュニケーションが始まります。そこにどんな受容と共感があったとしても、認識の原点が✕出発なのです。それでどうして人格の陶冶が進むというのでしょうか。

カウンセリングのゴールを定義するとすれば、私は「真理に近づくこと」だと定義しています。なぜならば、究極的な意味において、真理以外で人が癒やされることは考えられないからです。自己肯定感という尺度で見たときに、ある価値観に合致するかどうかで比例して高くなったり低くなったりするのであれば、とても不安定なものになります。条件によって左右される自己肯定感はとても不安定なのです。従って、誰かに肯定されるとか、認められるとか、そのような条件付きの自己肯定感は真理とは遠いものになります。

条件によって左右されない、失うことのない自己肯定感。これこそが真理から得られるものです。(肯定と書きましたが、精密な意味においては〇✕の〇という意味ではありません)

観点がないこと

人間関係に問題がある、社会に適応できない、色んな問題を人は抱えているかも知れません。

カウンセラーに求められることは、「観点がないこと」だと考えています。なぜなら、映画「クラウド・アトラス」でソンミ451が言っていたように、「視点があるのだとすれば、それは真理ではない」からです。

視点(=観点)があれば、必ず相手をジャッジしてしまいます。それがいけないというわけではありませんが、観点がある状態でのアイデンティティで応対すれば、癒やしとは遠いものになってしまいます。

個人的な現在地

学問的知識をベースとせず(基礎的なものはありますが)、思想体系もベースにせず(知っている世界に囚われたら狭いものになってしまう)、真理だけをベースにしたカウンセラーというのは、私から見て理想的な師匠がいない状態です。従って、ものすごく手探りな状態なのです。ただ、キーとなるのは知識技術ではなくアイデンティティだと考えています。

形にするのが難しい。言語化するのも難しい。しかし、これからも取り組んでいきたいと考えています。

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