単一の認識フィルターで見ることによる弊害

以前私は、成功哲学的論理に傾倒しているときがありました。

  • 全てを感謝で捉える
  • 全ての困難をチャンスと捉える

等に代表されるような、認識のトレーニングをしていたことがあったと言うことです。

その努力は一定レベルでは成果を上げているように感じました。例えば、困難な状況に陥ったときに、その状況の被害者となって嘆くだけでなく、その状況を乗り越えて打破するエネルギーの源泉に変化させ、乗り越えようという意思を生み出すことが可能となるからです。

従って、このようなポジティブ認識フィルターを装着することには一定レベルの効果があることを認識しています。

 

しかし、物事とは全て多面的なものです。一つの認識システムによって全ての情報を単一的に処理することが必ずしも正しいとは限りません。

私がこの認識システムの弊害だと考えるのが、感情の抑制ではないかと考えています。特に怒りや憎しみなどのネガティブな感情は、前向きなものではないとしてこの認識システムにおいては否定されがちであることを感じます。

例えばあるカウンセラーだと称する人と実際にあった会話で言えば、不平不満を訴えている人に対し、そのカウンセラーは「あなたは感謝が足らない!」と怒ったそうです。

「全てを感謝とチャンスというフィルターを通して見なければならない」という観念システムからすれば、それに反することはあってはならず、その観念システム上誤りだとされる考え方に対しては、結局怒りで対応することになるのです。

恐らく、そのカウンセラーの心の中では、「自分は正しいことをしている(言っている)」という認識になっているでしょうし、「自分は愛情からそれをしている(言っている)」と信じて止まないに違いありません。

 

しかし、この現象をまた別の観点で見たとき、「ある考え方・思想論理」を絶対正しいと思い込み、その論理によって相手に従わせようとする、その正義の刃そのものが暴力であるという風に見ることができます。この構造は、一見正しいとされる考え方や思想、よりマジョリティ的な常識的観念であればあるほど、暴力的な傾向を帯びるようになる、そのように私は見ています。

 

例えば、このような極端な例で考えてみましょう。

殺人鬼が突然あなたのところへやってきて、まさにあなたを殺そうとしているとき、あなたはそれを感謝で捉えて、何もせず殺されてしまうでしょうか。本来は逃げたり、助けを呼んだり、選択肢は多彩にあると考えられますが、単一の認識システムしか選択できない状態だと、行動の選択肢も非常に限定されたものになってしまいます。狭い選択肢しか持てない状態だと、命の危険に関わることもあると思います。

 

話は戻りますが、私はこの、単一の認識システムの押しつけ(またはそれによる支配)が愛情であるという風に思ってしまう、人間の思い込み世界におけるコミュニケーションの限界に対し、ずっと打開策を探って参りました。その打開策としてようやく到達したのが観術の案内する認識の次元上昇の境地です。ただ、私自身が現実世界に活用応用するレベルに十分に到達できていないと思われるため、現段階では、現実世界の観点では争いが絶えないように見えてしまうと思います。

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