因果律出発のライフワーク

私は、2010年前後にライフワークという考え方に出会いました。

それまで、人生の初期段階においては、親や周囲を見て世の中を学習し、収入を得る手段としては会社員・サラリーマンになるしかないと考えていましたし、そのように洗脳・教育されていたという風に言うことも出来ます。

しかしながら、願望達成や引き寄せの法則などを学習・習得していく中で、人生というのは、実際に願ったことが叶うのだと知るようになりました。それも、叶えるための方法さえ最初の段階では分からなかったとしてもです。願ったものが何でも叶うのであれば、働かなくてもいいくらいにお金があって、義務的労働から解放される自由な立場になることが最高の理想だと考えるようになりました。

だから、その頃の私にとっては経済的に自由になることがゴールだったのです。義務的なものから解放され、自由解放されることがゴールだったのです。

その時には、気付かなかったことがありました。それは、与えることや奉仕が喜びになり得るという概念です。そもそも論で言いますと、労働・仕事が苦しいものだと思っているから、そこから解放されたいと思うわけです。前提となる労働観が苦しいものだという固定観念で構成されていました。ただし、それはやむを得ないとも言えます。なぜなら、その頃の私から見れば、みんなが嫌々仕事をしているように見えましたし、みんなが奴隷のように見えたからです。従って、そこから解放されることがゴールだと思うしかありませんでしたし、それ以上のものはイメージさえ出来ませんでした。

ライフワークとの出会い

そんなあるとき、出会ったのが本田健さんのライフワークという考え方でした。

正直言えば、衝撃的なコンセプトだったのです。仕事との関わり方、お金との関わり方の概念を全く変えてしまう力を持っていました。

好きなことをして、それによって顧客から喜ばれ、感謝の表現としての対価を受け取り、その循環の中で経済的に成立するようにするということです。

これは、とにかくお金を手に入れて自由になることがゴールだと考えていた過去の私からすれば、比較してより高いレベルの幸せだと認識できました。だから、この考え方にはまったのです。

しかしながら、好きなことで独立起業すると言うことは、会社員としてなんとなく言われたことに従って給料を得るという働き方とは全く違います。ある一点にフォーカスしてそこに集中し、特化してその特化した分野で自分という人間を売り出し、表現し、世の中に出ていくわけですから、それまでとは全く違う取り組みが必要なわけです。

具体的に言えば、自分という人間がどういう人間なのか知る必要があると言うことです。それはそうです。自分が何が好きなのかを知らなければ、始まりさえしないからです。しかしながら、会社員として、隷属的地位で給料を得ると言うことを長年続けていた私にとって、また、家族関係の中でも、自分がどういう人間なのか問われたことさえなく、人間性を無視され続けてきた私にとって、自分がどういう人間なのかを知ることは大変な困難を伴っていました。

また、ある特化した分野で世の中に出ていこうとするのであれば、余程強い意志がないと難しいと思います。言い換えれば、どうしてもやりたいことでなければ、少しの失敗で嫌になりますし、苦難があったとしても進もうとする動機は維持できないのではないかと思います。強い意志とは、思い込もうとして無理矢理思い込む意思ではなく、自分にとってどうしても譲れないもの、諦めたくても諦められないものです。

従って、好きなことをやるといいと言われて好きなことをやってうまく行くような、そんな安易でチープな世界ではないことも理解しました。

また、間違っているなと思うような事例もありました。

これはちょっと違うのではないかという事例

それは、過去の癒やされない傷を持ち続けながら、歪んだ価値観を前提とするライフワークです。

例えば、Aさんという人がいるとします。Aさんは、過去の家族関係の中での経験から、人助けが自分の使命・ライフワークだと認識しています。従って、困っている(とAさんが判断した)人に対して、ひたすら助けようと試みます。聞かれなくてもアドバイスをし、その他自分が思う、良かれと思う情報を与えてあげたり、何かアクションをしたりします。あるいは何かをしないこともアクションの一つです。

Aさんにとっては使命感に突き動かされるようにやっていることなのかも知れませんし、自分が正しいことをしていると信じて止まないかも知れませんが、もしかするとその世界観の前提となる要素に歪みがあることに、Aさんは気付いていないかも知れません。問題はどこにもないかも知れないのに、Aさんの世界観を通して見れば、問題があるように見えてしまうのです。もちろん、どんな偏光グラスをかけて世の中を見たとしてもそれは自由だと思うところもあるのですが、何にせよ、あまりにも偏った世界観から行うライフワークは、そもそも本人が幸せではないという問題もありそうです。従って、これはライフワークではないと私が考える事例になります。

他にも色々と具体的な事例は書けるのですが、あまり詳細に書くと見ている人にぴったり当てはまったりしてしまうかも知れないので、そうなると苦しいと思いますので、ここでは多少抽象的にぼかすことにします。

好きなことは入り口に過ぎない

私は最初、好きなことをして生きていけたならば、それが幸せに違いないと思っていました。

しかしやがて、普通の人生を離脱して自分の人生を模索するのであれば、”好きなことをする”というようなレベルではなく、何が何でもやりたいこと、絶対に譲れないこと、命をかけてでも今回の人生でやりたいこと、これを追求するのでなければ、普通のレールを外れる動機にはなり得ないと思うようになりました。

つまり、”好きなこと”を探すレベルではなく、何としてでも今回の人生でやりたいこと、命をかけてでもやりたいこと、これを探すことが第一優先だと考えるようになったのです。強い動機、内発的動機は内側から出てくるものです。困難に打ち勝てるのも、内発的動機があってこそです。本田健さんに”好きなことをやった方がいい”と言われて、なんとなく信じているレベルでは、私にとってはまだ不十分だったのです。

最終的には、その探求とは、”自分とは何者なのか”という問いに帰結します。自分が何者なのかを知らなければ、現在地からどこに向かって一歩を踏み出せばいいのかも分からないでしょう。分からないままに誰かに言われるままに進んでしまうかも知れません。しかしながら、自分軸がなければ、自分の人生など歩めないと思うのです。

そして、”自分とは何者なのか”という問いは、やがて子供時代の自分を思い出すレベルでは最終到達でないことに気付きます。インナーチャイルドや感情と繋がることがゴールでもないことが、やがて分かってきます。分からない人は、そこに疑問と問いを持たない人です。

自分とは何者なのか

自分とは明るい人間である

自分は前向きな人間である

自分は〇〇な人間である。

これが明確になれば、”自分”が分かったことになるのではないかと、ずっと考えてきました。

しかし、やがて、そのような”自分とは〇〇な人間である”というような固定した定義そのものが誤っていると思うようになりました。

なぜか。

心とは本来、無限に自由なものだからです。

定義など出来ないのです。

それは、禅の世界で悟りを不立文字と表現していたことと似ています

従って、究極的に自分を知ると言うことは、無限の可能性そのものになると言うことだったのです。

従って、幼少期にAという経験をしたからBというライフワーク・使命を生きるという考え方は、因果律出発であるために無限の可能性とは言えません。因果律に捕まっていたら、自由な心とは言えないからです。制限された心からは、喜びとしてライフワークを生きることは難しいのではないかと思います。従って、ライフワークを生きると言うことは、悟りの知恵とは無関係ではいられないと、私はそう思います。

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