悟りから見た、”自分を取り戻す”ということ

数年前、ネットワークビジネスに頻繁に勧誘されていた頃、よく言われていたコンセプトは概ね、”年収を一桁増やすこと”でした。

経営者に頻繁に会っていた頃、彼らが主張する世界観は概ね、”人に使われる側から、人を使う側になる”ことでした。

あるいは、人間関係について集中的に学んでいた頃、よく言われていたのは、”パートナーがいる方が望ましい”、”人間関係が良好な(争いがない)方が望ましい”でした。

一般的に考えられる”自分らしさ”

一般的な日本人として、十分に健康的なセルフイメージを持って独立した意思決定が出来る状態で成人できる人はほとんどいないと感じています。それは、生まれてから成人するまでの課程において、通過した環境によって観念や世界観、セルフイメージが条件付けられ、パターンが出来上がり、それが自分だと感じるようになっているからです。

それが自分らしさだと感じる人も多いでしょうけれども、むしろ条件付けられ、制限され、可能性を失った状態であると、悟りの観点からは見ることができると考えています。問題はそこからです。

✕出発

たいていの人にとって、どこか出発点が✕出発なのです。つまり、✕だから〇にならなければならないと考えているために、収入を増やすことであったり、下から上に行くことであったり、パートナーを得ることが〇になるための条件だと捉えてしまう必然の仕組みがあると言うことです。

ほとんどの場合にはこの自覚がなく、✕から〇への変化を追い求めているわけですが、変化できても、出来なくても、これは大変に苦しい変化方式なのです。なぜならば、例えこの方式に従って〇になれたとしても、原点に✕があるため、これがシャドーや投影に繋がり、ひいては他者攻撃に繋がるのです。自分の信念に合致・適合しない者は攻撃・否定したくなるでしょう。それは現実世界に現れる現象となる前に、内面で起きていることなのです。

条件付けで〇になろうとしている限り、本当の意味で安心立命の境地にはなれないです。なぜならば、文字通り条件付きの〇であるからであり、そこから外れてはならないという恐怖や不安が内在しているからです。あまり自覚のある人は少ないと思いますが。

私もまた、極度に✕出発の人間です。それ故に、〇になるために必死で色んなものを追求してきました。しかし、出発点が✕である限り、どうあがいても幸せにはなれないことを悟りました。〇になるための条件がなくならなければならなかったのであり、そして出発点の✕を消さなければならなかったのです。

観点を消す

しかし、〇やら✕を消すと言うことは、常識では考えられないことです。なぜならば、自分の価値観や思想体系、哲学があるのが当たり前であり、エゴやインナーチャイルドも在るのが当たり前だと考えられているからです。これを無くすというのは、一般的な感覚で言えば、死ぬことと同義であるくらい難しいことなのではないかと感じています。

人間は生まれた瞬間はあらゆるものが未学習なので、ゼロから始まると考えられますが、経験や記憶とともに人格が出来上がっていきます。その中で人それぞれの価値観や感じ方の特徴なども醸成されていきます。ある意味、それがその人らしさと言えそうです。ですが、その経験と記憶がその人の可能性を制限していると言うこともまた一面の事実であると言えます。一般的には経験や因果から自由になれないのです。

もう一度、選び直す

因果から自由になるメリットとはいったい何なのでしょうか。それは、もう一度選び直せると言うことだと考えています。そこに善悪や優劣抜きで意思決定が出来たとしたら、それこそが本当の自分らしさではないでしょうか。公務員になりたければ公務員になればいいし、会社員になりたければ会社員になればいいし、結婚したければすればいいし、その意思決定をどれだけの広い可能性から行うことが出来たのか、結局はそこに尽きると思っています。結果となる現象世界よりも、その結果を成立させる原因の方が重要であると考えています。

従って、悟りが一般常識化する社会というのは、全ての人が本当の意味での自由意志を持っており、独立した意思決定が出来、その基礎には条件付けられない自尊心が常にあるため、不必要な争いが起こらないのです。もちろん、必要な議論はあると思いますが、意見の違いは戦争の理由にならず、多様性の尊重は当然のこととして認識されているからです。

〇になるための条件が必要なくなったとき、人は本来の自分らしく生きることが出来ると思っています。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください