境界線がないことがなぜ必要なのか

少し、私のブログは一般的なカウンセラーが扱う分野から少し悟りの価値に偏りすぎていると感じたことがありました。それはなぜかというと、私にとっては既に通り過ぎてきたことが多くあり、青年期の悩みを通過してもっと全体論的な問題の根幹や心とは何かを追求する中で、その問題の全てを生み出す根幹領域に到達するようになっていたからだ、という風に、私は現状を分析しています。

そのため、そもそもの青年期に抱える問題そのもので手一杯の方にとっては、読んでも意味が分からない、必要性が理解できない、という問題が発生することを懸念するところもあります。なので、今後はそのような喫緊の”目の前の“問題についても出来るだけ取り扱っていきたいと改めて思い直しました。

さて、そうは言っても今回は、またしても悟り、特に観術の必要性についての話になります。特に、”境界線がない”世界がなぜ必要なのか、改めて書いてみたいと思いました。

結果の世界

一般の人々の感覚で言えば、自分という人間はいるのが当たり前であり、そしてまた、自分という人間が抱える問題や自分の存在様式、自分が正しいと信じる世界観があります。これは当たり前の話です。AさんにはAさんの信じる正しい世界があり、BさんにはBさんの信じる正しい世界があるのです。

そして問題は関係性の中で生じます。それぞれがそれぞれの多様性を認める関係性であれば良いのですが、集団の中で意思決定するときに観点の問題が生じます。自分が正しいと信じて止まないAさんは、Aさんの価値観(フィルター)から見ればBさんが間違っているように見えてなりません。そこで、自分の信念に従い、Bさんを変えようとします。自分の判断基準で相手を見ることしかできなければ、そして、そこで支配的な立場を維持しようとすれば、自分の判断基準によって相手を攻撃し、蹂躙しようとするしかないのです。

特に自分の信念を常々強化しているタイプの人にとっては、自分の信念が絶対的なものになり、その信念からでしか物事を見ることができなくなります。世の中で起こる争いの原因は、すべてこの、自分の信念の中からしか物事を眺めることが出来ないことが起因しています。意思決定した結果の世界から物事を見たとき、世の中は違いだらけで、従って争いの種ばかりなのです。そこには多様性を認める大らかさが存在しません。

違いが生まれる原因

当然ですが、人はそれぞれ生まれ育った環境が違うので、価値観や信念も千差万別に違って当然なのです。なのに、どれか一つに統一しようとすることがファシズムであり、暴力・戦争に繋がる考え方なのです。観術の教えに沿って言えば、現在は資本主義プレートの上にあります。従って、お金をたくさん稼ぐ人が偉いと見なされる傾向が強く、数字の高い人がより強い発言権を持つ傾向があります。ですが、たくさんお金を稼ぐ人の意見が正しくて、そうでない人の意見は重要でないとするならば、これも一種のファシズムであり、暴力だと言うことも出来るでしょう。

全ての問題を解消する技術

では、全ての問題はどのように解決していくことが出来るのでしょうか。そのためには、問題が発生する以前にまで遡らなければなりません。問題が発生した後の結果の世界で何をどのようにしても、すでに決定された自分の立場を主張することしか出来ないため、争いや戦争が終わらないのです。つまり、問題がないところから考えなければ、問題そのものが消えないのです。問題があることを出発点にすれば、解決不可能なのです。観術とは、問題解決の前に問題を解消してしまう技術だと言うことも出来ます。一切の違いが生まれるその前、従って、一切の境界線が生まれるそのから考えることが時代の新しいプレートになったとき、戦争は終わり、人々は違いを理由に争うことなく、多様性を認め合い、ともに協力し合って新しい時代を作っていく全く新しい時代に突入して行くのだと思っています。

補足

書いていて思ったのですが、私自身がまだまだ不十分な段階なので、決して私は既に出来ているという立場から書いているわけではありません。私もまた問題を抱え、この問題に取り組む一人として、時代とともに進んでいきたいと考えています。

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください