行きすぎた感謝

ポジティブ思考の人によく見られることですが、先日、こういうことがありました。

私は、「嫌いな人は嫌いです」と言ったことに対して、その人(仮にAさんとします)は、「全ての人のいいところを見るようにすれば、全ての人が好きになる」と言いました。

私は、そう言われても嫌いであるという感情を変えるつもりがなかったので、Aさんのアドバイスは結局聞こうとは思いませんでした。

このように、思考優位と言いますか、確かに「思考は現実化する」という本もありましたし、引き寄せの法則も随分ポピュラーなものになってきましたから、確かに人生全般に対してコントロール可能であるという考えを持つ人はいると思います。

確かに、全ての人には自分が好きになるポイントもあれば嫌いになるポイントもあるでしょうし、感謝できるポイントもできないポイントもあると思います。しかし、そんな風に思考を進めていったときに、随分と人間本来の自然な感情とかけ離れていくなと感じています。

私が感じるのは、理念依存といいますか、ねばべき的思考展開のような危険さです。

その気になれば何でも感謝できる

ある思想哲学に強烈に依存・執着している状態というのは、別の観点で言えば心の自由さを失っている状態とも言えます。

何でもそうですが、やり過ぎるとどんどん極端になっていきます。例えば、もちろん強盗に遭ったとしてもその強盗に感謝できる観点は考え出すことも出来るでしょう。見つけようと思えば見つかるものです。家族を殺されたとしても、その気になればその出来事の中からポジティブな側面を見つけることも出来るでしょう。あるスピリチュアルな側面から見たとき、人類歴史の発展のために戦争は不可欠だったという観点まであるわけですから、もちろん何でも考え方次第だと言うことになります。

そのような考え方は、例えば食べ物についても適応できそうです。どんな食べ物でもそれなりに肯定的な側面があって、そのような面ばかりを見るようにすることも出来るでしょう。どのような事に対しても感謝できるというのは、実に素晴らしい習慣のように思えてきます。

でも、結局その人は何が好きで何が嫌いなのでしょうか。全部思考の話しかしていなくて、感情の話が全然出てこないのであれば、どうもその人のことが分かったようでいて、分からないようにも思えてきます。

私の視点

私は相手の人間性を見ていますので、感謝しているかどうかではなく、なぜその習慣を身につけようと思ったのか、その原点にある思いの方が知りたいと思っています。そこがその人の人間性の原点であり、その人のなりを表すものだからです。なんとなく誰かから言われてそうしているだけなのだとしたら、その人は主体性のない人だという判断を下すかも知れませんし、あるいはその人なりの理由があってそうしているのだとしたら、その理由によってその人のことが好きになるかも知れません。つまり、現象や結果ではなくその現象や結果を生み出す背景や思いの方がその人を表していると言うことだからです。

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