変化の起点

核兵器禁止条約の国連決議において、日本が採択に反対したということが伝えられました。(参考ニュース参考映像

日本は第2次世界大戦の終わりに広島と長崎に原子爆弾を投下されて民間人数十万人が亡くなりました。日本は世界で唯一の原爆を投下された被害国だとされています。私はこのニュースを見た時に、どうして唯一の被害者がその加害兵器に対して廃絶の意思表示を出来ないのかと訝しみました。

私はある仮説を持っています。それは例えばドイツが第2次世界大戦後に自らの加害責任を総括して国全体を挙げて反省し、立て直してきたと言うことです。でも日本はそれが出来たとは思えません。反省したり、総括したり、そこから改善への道筋を付けると言うことがうまくできなくなっているように思います。

例えば福島原発の事故ではあわや日本という国そのものの存亡が危ぶまれました。あのときの緊張感は国全体で共有していたように思うのです。なのに、月日が経つにつれて風化し、記憶からも薄れ、今ではスーパーに何気なく福島産の野菜が陳列されていますし、原発の再稼働を承認したりする動きも活発ですし、福島原発の事故を受けて運転は最長40年と決められたにも関わらず、結局それも骨抜きになって延長が決定されてしまいました(参考)。

私がなぜ社会的な問題を取り上げるかというと、多くの人にとっての共通事項だからです。ただし、社会問題にはあまり興味がないという社会人も多いでしょう。

では、身近なところでは、働き方はどうでしょうか。先日電通では長時間労働によるストレスが起因で自殺した24才女性社員のニュースが世間を賑わしました(参考)。もちろん、ストレスだけが直接の死因ではないでしょうけれども、本当に痛ましいことです。

日本では長時間労働が問題だとされています。これは業界による違いも大きいとは思いますが、生活時間がほとんどなく仕事だけが人生の80〜90%を占めている方も多いでしょう。それで最後は自殺にまで追い込まれるようなことになったりすれば目も当てられません。

日本が総括できない構造

しかし、なぜなのでしょうか。上記に共通することは、痛みを痛みとして経験し、そこから改善を導き出すことが出来ていないと言うことです。例えば、「あんな悲惨な体験は繰り返したくない」という思いから核兵器廃絶を目指すと言うことであったり、徹底的な原因究明や想定外などと言う言い訳を一切許さない厳しい論理で原発問題に向き合うというのであれば分かりますが、あれだけの経験をしていながらそれを繰り返してしまうと言うことは、痛みを感じていないと言うことなのではないかと思います。あるいは、「自分自身」はたまたま直接の被害者であることを免れたので、被害者の立場に立たないとでも言うのでしょうか。

最初に言及した仮説へと話を戻すのですが、日本人は教育によって考える力を失っている状態なのだと思います。日本人の皆さんは生まれてから大人になるまでの間に、どれくらい「自分の意見や考え」を大切にされてきたでしょうか。それを尊重し、主張することを尊重されてきたでしょうか。

残念ながら、日本のほとんどの学校で行われている教育方式は答えの暗記であり、知識の詰め込みに過ぎないのだと思います。そこでは「あなたの考えや疑問」を尊重されることは重視されておらず、カリキュラムに沿って知識を伝え、理解していようがしていまいが、暗記していれば点数を取れてしまうのです。そこでは皆さんの興味や関心、好奇心の有無や度合いなどは考慮されません。残念ながら日本という国は今現在、主体性が育つ土壌が十分ではないと思います

しかしながら、「あなたが何をどう感じ、どう考えるか」という事を起点にしなければ、何も変えることができないと思うのです。(ここでいう「あなた」とは何かという定義はかなり難解になる部分でもあるので今回は触れません。)核兵器を使用されて大量の死者を出した国でありながら、直接の被害者だけが核兵器廃絶を訴えているだけでは弱いと思います。広島と長崎に血縁がなく、親類縁者や知人にその悲惨な経験をした人がいなかったら、自分には関係がないのでしょうか。直接自分に関係がなかったら、経済論理だけで突き進むのでしょうか。私はこれは想像力の問題でもあると思います。いずれこれはアイデンティティの問題として認識されることになるでしょうけれども、今の段階では想像力の問題だと述べておきます。

文化や伝統芸能の中には、変わらず伝えて行く方が良いものもあるのかも知れませんが、時代というのは進化していくべきであると考えています。人間は21世紀になろうが22世紀になろうが戦争をなくせないのでしょうか。テクノロジーは進化発展してきたのに、人間そのものは進化しないのでしょうか。私はそんなことはないと思います。「必要は発明の母」という言葉もあります。どんな変化もその起点は個人または集団の意思にあるのだと思います。誰かが何かを意思し、意図したところから変革は始まるのだと思います。従って、何も感じない、何も考えない、意思を放棄した状態では変化が生まれないのです。何もかも仕方ないで済ませていれば、せっかくこの時代に生まれてきたのに何も意思を行使しないと言うことではないかと思います。これはとても勿体ないことだと思います。

しかし、今この日本に生まれ、自分の意思を持つと言うことはそれほど簡単なことではないかも知れません。しかし、諦めずに私は私なりにこの問題に取り組んでみたいと思います。

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