「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」

マイケル・ムーア監督の「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」(劇場公開日 2016年5月27日)というドキュメンタリータッチの映画があります。

この映画では、アメリカから見てヨーロッパ(ドイツやイタリア、フランスその他の各国)の公共福祉がいかに突出して優れているかということが描かれています。有給の長さや昼休みの長さ、無料の医療費や大学の学費が無料であることなど、インタビューしているムーア監督がその実態を知って驚き、羨ましがるシーンが多数出てきます。

この映画はアメリカ人向けに作られているようですが、日本人であればムーア監督の驚きに共感するポイントは多数あるのではないかと思います。日本人も同じく人生のほとんどを仕事に費やし、人生を謳歌する時間がほとんどなく、まるで社会人になったと同時に牢獄に入ったも同然だと言う状況があります。

例えばあるイタリア企業のCEOにインタビューしているシーンで、社員が高い福祉的環境下で心身共に充実していること、そしてそれが仕事へのモチベーションへと還元されていることを喜びであると語っていました。平たく言えば、十分に休みを取れているので十分にリセットされ、仕事にもやる気を出せるのです。そして、経営者はその事に喜びを感じているのです。彼ら経営者は、「自分」が金持ちになることにあまり興味関心を見出しておらず、社員が喜んで働いていることに喜びを見出している様子でした

日本ではどうでしょうか。「もっと働け」とばかりに、残業したり休日出勤したり徹夜したり仕事を持ち帰ったり、社員を酷使して搾取することがある種当然であるという風潮があります。部下の心身共の福祉にはまるで興味がないような上司がとても多い、多いどころかほとんどがそのような人間で占められていると思います。まるで他人(部下も他人だという認識なのだと思います)のことなどどうでもいい、他人が苦しもうが、搾取に満ちたものになろうが、知ったことではないと言わんばかりです。

しかしながら、他人のことはどうでもいいという考えは、翻って見たときに自分のこともどうでもいいと考えていることと極めて近い相関関係にあると思います。そのような世界観・人生観の上に世界を見ていると言うことを意味しているからです。日本では、この世に生まれ落ちてから家庭環境、義務教育を経てそのような世界観・人生観をインプットされているのだと見ることができると思います。義務教育の9年間を経て知識を獲得したように見えながら、実は自分の可能性はどんどん制約されていく、日本型の教育にはそのような側面があると思います

変革のプロセス

ところが、この映画で語られるようなヨーロッパ圏の「羨ましい」文化は、最初からあったものでもありませんし、上から与えられたものでもありません。何度も示唆されているように、それは勝ち取ったものだと言うことなのです。ということは、日本でもその革命は可能だと言うことを意味しているのだと思います。しかし、長い年月をかけて可能性を奪われた人間が再び可能性を取り戻すと言うことは「」によって可能になるのでしょうか。

新しい「知識」でしょうか。ですが、知識は新たなドグマとなり、争いの元になる危険な道具です。ドグマ=教条主義は人間を高めるように一見見えながら、一方でまた人間の可能性を制約する役目も果たしています。再び人間が可能性を取り戻す道筋は、新たに何かを獲得することではなく引き算していくことの中にある、と見ることもできそうです。今現在保持している価値観や世界観が後天的に獲得されたものであるならば、それをマイナスできれば、再び可能性を取り戻せると言うことを意味するからです。

「〇〇であるべきだ」「こう考えるべきだ」「〇〇が望ましい」という考えは、どんどん人間の可能性を制約していきます。では、教育とは人間の可能性を奪う側面から逃れられないのでしょうか。人間の可能性を後天的に開花させる教育というのはどのようにして可能に出来るのでしょうか。私はそれがあることを確信していますし、それを普通の人に伝わる形で伝達できるようになりたいと考えています。

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