「涼宮ハルヒの憂鬱」

日本のアニメは極めて優秀である」と語ったある人がいたが、私もその考えには同意する。邦画のくだらなさ、特に俳優のわざとらしさにウンザリするし、嫌気も差す。だけれども、日本のアニメには特別な魅力がある。それは、河合隼雄(故人)が語った「物語」の持つ価値がそこに込められているからと言う気がするのである。

私はこのアニメを、数年前と最近の2回に分けて見た。当初見たときには感じなかったことが、今は数多く感じ取れるようになっている。何しろ、最初見たときには実にふざけたアニメだとしか思わなかったからだ。だが、今見ると実に面白いアニメだと思う。そして、全体にテーマとして貫かれている愛情もまた、とてもいい。作者は、すごく分かっている人だなと思う。

<ないのなら、作ればいい>

タイトル通りの「涼宮ハルヒの憂鬱」は、シリーズ第1話でも語られている。勉強も出来て運動も出来て、その上で全部の部活に入ってみたけれども、面白くない。だからずっとイライラしている。彼女はずっと、この世界にないものを探してイライラしている。なぜなら、探しても見つからないからだ。だけれども、キョンと出会って電撃的なある考えを閃く。それが、「ないのなら、作ればいい」というアイデアである。これは革命的な考えだと思う。

探してもないのなら、作ればいいのだ。でも、その前提として、探すのを諦めてはいけない。「世の中こんなもの」なんて諦めた瞬間から、生きることが無味乾燥になっていくのだと思う。諦めないでいることは、痛いことかも知れない。人から蔑まれるかも知れない。イライラして憂鬱になるかも知れない。でも、何も感じなくなるよりはいいのではないか。私はそう思っている。

<キョンという触媒>

涼宮ハルヒは、どうやら中学の3年間でもまともに級友と会話すると言うことがなかったようだ。しかし、キョンが話し相手になると話し出す。止まらないほどに。それはなぜか。それは、キョンが深いところでハルヒを許容しているからである。この「深いところ」というのが重要で、表面的に抵抗を感じているとか文句を言っているとか言う層とは異なるところで繋がっていると言うことを意味している。

相手と異なる意見を持っていたとしても、その自分(ego)と異なる層の自己(self)とでも呼べる層で相手の話を聞き、どこか無条件で受け入れてしまう。彼が特別なことを言っているわけでもないのにハルヒが心を開くのは、表面的な意見の相違ではなく、深いところのつながりやその見えない無条件の受容を感じ取っていたからではないかと思う。意見が違うとしても、存在そのものを否定されているわけではない。それが安心感を生んでいるのではないかと思う。そんな風に話を聞ける人はなかなか居ないのだろう。

<その他>

「人類の自立進化の可能性」など、考えると面白そうなテーマも結構ある。でも、それはまた別の機会にしたいと思う。

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