「無」の価値

心理学者のフロイトが当時解決しようとしていたのはノイローゼの患者の問題だったと言います。患者がやってきて、色々な身体的症状を訴えるのですが、それを解決するために到達したのが「心理分析」という方法だったという流れになります。

例えて言えば、患者は様々な症状を訴えるわけですが、それを解決するためにその症状に着目し、例えば医学的に診断しようとしたとしても医学的に見て別に何か問題があるわけでもない。でも、その人がその症状を形成するに至った経緯を紐解いていったとき、その原因となるのはその人が通常意識していない「無意識」領域にあったと言うことが分かりました。

そこからフロイトは人の心には通常意識されない「無意識」という領域があると言うことを提唱したわけです。この無意識という概念の提唱はとても画期的であり、後世から見てもとても重要な発見だったと言えるのではないかと思います。

人は、大人になるともはや幼少時代に何を考え何を感じていたのか分からなくなるものです。それが人格形成の基盤になっているにも関わらず、人格が確立してくるともはや「自分はこういう人間である」ということが絶対であるかのように思えてきます。「絶対である」などと意識的に認識できているのであればその人はよほど客観視できる状態であると言えますが、多くの人はそこまで自分を客観的に認識することは難しいのではないかと感じます。

そのような観点で見たとき、「病」や「問題」などはフロイト的手法を用いて過去に原因を探し、意識化されていない原因にまで到達したときに解決に至ると言うことが実際によく見られたのでしょう。

しかしながら、過去を見るという作業には問題もあるように感じます。幼少期の自分を思い出す作業をしたり、あるいはもう少し宗教的な要素が入ってくると、過去生を見ていったり、あるいは家系を遡ることでその家系が代々抱えている問題が明らかになることもあります。でも、一番の問題は、過去生まで遡ったのに関わらず、結局今の自分は原因と結果の因果の法則から自由でない、がんじがらめの自分でしかないという場所に陥ってしまうことにもなりかねないのです。

それはそうだと思います。問題を遡っていけば原因は見つかるかも知れませんし、あるいは推測できるかも知れません。あるいは、過去生が見えるとか言う人が何とかかんとか言ってくるかも知れません。でも、その事と、「今ここにいる自分が何をどのように意思決定するべきか」と言うことに一体どれほどの関連性があるのでしょうか。また、結局原因を遡ったところで、それが一体何だというのでしょうか。今ここにいる自分が自由意志を発揮すると言うことと、原因とは一体どういう関係性にあるのでしょうか。

そのように考えたときに、遡り方が中途半端だから自由になれないのだと今は考えています。禅が言うところの「1なるもの」、仏教が言うところの「実相」や「空」、私はだいたい理解が曖昧ですのでどれも「」のことを指していると大まかに理解していますが、いずれにしても、因果を越えた場所=無に到達しないと自由意志は発揮できないのではないかと考えています。

人は簡単に「私の意見」などと言いますが、全然自由でもない心では「私の意見」など持つことはできないと思います。言うなれば、ほとんどの人が言っている私の意見というのは「(過去に色々とインプットした情報や経験に思いっきり影響されてがんじがらめの)私の意見」に過ぎなくて、本当に「無から自分の力で作り出した本当の私の意見」というのはなかなか持つのが難しいことだなと思っています。

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