それはとてもいい質問だね

私は、残念ながらアメリカやヨーロッパなど海外に行ったことがありません。唯一行ったことがあるのが韓国ですが、それも観光目的ではなかったので、深い交流があったとは言えないでしょう。

従って、私が持っている海外のイメージというのは私が経験したものではなく、人から聞いたものや何らかの情報媒体から得たものが中心になります。実体験で経験し、身につけた海外のイメージというのはないと言っていいでしょう。

もちろん、そういうことを言ってしまえば、人は全てを経験することは出来ませんので、例えばニューヨークに行ったところでアメリカの全てを知ることは出来ないでしょうし、またありとあらゆる場所に行ってみたとしても、それが短期滞在であったならば、その場所や風土が持つ本質的なものに触れることはないかも知れません。

いずれにせよ、私がここで書きたいのは、こういうことです。私の中にある、アメリカやヨーロッパの大学のイメージについて私はここで書きたいと思っています。もしかしたら私がここで書くことは大学に限らないかも知れません。しかし、とりあえず大学だと言うことにして書き進めてみます。(必要に応じて高校や中学と読み替えてもらってもいいと思います。)私が今まで見聞きした西洋諸国の大学のイメージでは、生徒がどんな質問をしても、必ず教授は「それはとてもいい質問だね」と必ず最初に言ってくれます。そして、その質問をバカにする事なく、きちんとその生徒の質問に向き合い、自分なりの意見を述べてくれるのです。

そのイメージは、私にとっての憧れなのです。なぜならば、人が人として尊重され、どんな意見や考えであっても否定されることなく、その尊厳を守るという認識がお互いにあると言うことだからです。そこには「自分は正しい」という暴力的な論理は存在せず、ただ自分はそう考えているのだと言うことと、その根拠が述べられるだけです。その論理に納得すれば相手はその考えを受け入れるでしょう。納得しなければ受け入れる必要がなく、とことん話し合えばいいだけなのです。私が西洋のアカデミックに対して抱いているイメージはこういうものです。

アカデミックを離れて

一方で、私は残念ながら学問の世界とは関わりなく社会に出てしまいまして、むしろ「超」が付くほどにこの現実世界で生きてきたと思います。つまり、尊重や尊厳がなく、暴力が支配する世界に生きてきたと思っています。

それは具体的に言うとどういうことでしょうか。

人の話が聞けない

恐らく、人によって生育過程は様々でしょうし、生まれた環境が違えば生きていく中で経験する人間関係も全く違うものになるでしょう。従って、今回は私の経験から話すことにします。

日本には、自分の意見や考えが絶対だと思っている人がとても多いと思います。そう言うのが嫌で、孤独を選ぶ人もある程度いるのではないでしょうか。例えば、学校でも会社でも何でもいいでしょう。上下関係が存在する集団の中で、その中でリーダー的地位を占めている人がいるでしょう。その人から何か指示を出されたり、命令されたとき、そしてその指示や命令があなたの考えに沿わないものであったり、適切だと感じられないとき、あなたはそのリーダーに対して諫言できますか?

もちろん、出来る人も一定割合で存在します。でも、私がそこで言いたいのはそういうことではなく、もし諫言したとすれば、あるいは、その指示内容の根拠を問いただしたり、疑問を呈したりしたとき、そのリーダーはどういう反応をするのかと言うことです。

日本におけるリーダー像は、どうやらまだ「絶対君臨者」のイメージが広く信じられているように思います。もちろん、ある程度知的水準の高い人達の話しではありません。この世界を支える、いわゆるブルーカラーの人達であったり、自らを高めようという意識を持たない一般層、、という言い方をするとものすごく侮蔑的な表現になってしまうのですが、侮蔑することが目的ではありません。私が言いたいのは、恐らくはこういうブログを読んだり、問題意識を持って自分を向上させたりするような、そういう情報に一生触れることのない人々です。

感情的に反発する。激高する。

私の実体験で言いますと、だいたい器の狭いリーダーというのは、何かを部下から指摘されると激高します。部下の意見に対して議論するという姿勢は最初からなくて、彼らの趣旨は大まかに言ってしまうと「上司である私に意見をするとは何事だ」という感情的反発です。せっかく意見を伝えたのにそういう反応をされたのなら、その部下はどのように感じるでしょうか。もちろん部下のキャラクターによって対応もまた様々でしょう。しかしながら、力関係を背景として暴力的に否定されるのであれば、自分の立場を危うく感じるかも知れません。集団に所属できなくなることは、一般的には危機だと感じられるからです。

そうなると、最終的にどうなるかというと、面と向かっては意見を言わなくなるけれども、陰では悪口を言うようになるかも知れません。あるいは、そもそもそんな集団には見切りを付けて、去ってしまうかも知れません。いずれにしても、お互いの個性を生かして全体としての生産性を上げるとか、かつてのソニーが持っていた「燃える集団」のような集団としての価値を創出することが難しくなります。

なぜならば、せめて<1+1=2>の足し算にさえならずリーダー以外は自分の個性や意見を殺して生きなければならないわけですから、<1+0=1>という結果になるわけです。相乗効果もあったものではありません。これは、集団というものを形成しながら集団のメリットを生み出すことが一切出来ておらず、結局一人で生きているのと同じ事になるのではないでしょうか。

昔、学生時代に、「人間関係は足し算ではなくかけ算だ」という話を聞いたことがありました。その話を聞いてみると、「1+1は2ではなくて、10にも100にもなるんだ」という文脈で彼らは語っているようでした。でも正直、今の世の中でそのようなかけ算がどの程度出来ているでしょうか。

クレーマー、モンスターペアレント

質の悪いクレーマーやモンスターペアレントについて、何かしら耳にしたことはないでしょうか。際限なく自分の権利を主張するクレーマーや、際限なく学校に責任を押し付ける親たち、特にモンスターと言われるほどの人はかなり極端なのかも知れません。

彼らもまた、<1+0=1>の人達なのだろうと思います自分の考えが絶対なので、何が何でも自分の意見を押し通そうとするのです。この世界には多様な考え方があって、多様な個性があるのに、その人にとっては唯一1つしかないので、何と足し算することも出来ず、何とかけ算することも出来ないのです

このような問題は、個性とは異なると思います。個人が個人として自分独自の考え方や世界観、価値観を持つことは尊重されるべき事です。少なくとも私はそう考えています。しかしながら、それを絶対的なものとして他者にも押し付けようとしたときに問題が発生するのだと思います。恐らくは、西洋ではそのような個人対個人の問題は古くからあって、だからこそ歴史が古く、成熟していると言えるのかも知れません。

しかしながら、日本人にとって個人主義的な考え方というのは決してなじみ深いものとは言えないので、本当に自分のものにするには歴史が浅すぎるのかも知れません。

まとめ

「違い」(個性、個人)を出発点として、そこからの対話をずっと長い歴史の中でやってきた西洋諸国と違って、日本は「同じ」(集団)であることを出発点として人間関係を構築してきたのに、急に個人主義が入ってきたために混乱しているところがあるのだと思います。

歴史が浅すぎるので、日本では「違い」を前提としたコミュニケーションがとても難しいと感じます。ただ、私は何も西洋が〇で日本(東洋)が✕だと思っているわけではありません。どちらが優れているとか、正しいとか、もうそういうことを言う時代ではなくなっていると感じます。

今、世界は一体何を必要としているのでしょうか。これからの時代というのは、何が求められるのでしょうか。世界は今までに何度か、進化するためのジャンプをしてきたと思います。農業革命であったり、産業革命であったり、あるいは電気が発明されたり、インターネットが発明されたり。

それが世の中に広まることで、世の中は緩やかな成長から一転して、急激なジャンプとも言える変化をした。そのような革命的な変化が、今までの世界を見たときにあったのではないでしょうか。大事なのは変化の起点です。「何か」が発明されたり発見されたことにより、世の中は急激にジャンプするように変化してきたのです。

では、次の変化の起点は一体何なのでしょうか。また新しい科学技術でしょうか。

もちろんこれからも新しい科学技術は発明されていくと思いますが、私は、次のジャンプの起点は「私とは何か」という認識の革命であると思っています。

その革命が世界の姿を一変させてしまうことも分かっています。ですが、広めるのは大変難しいことであることもまた分かっています。何しろ、まず私自身の中で革命を起こすこと自体が難しいのですから、それを伝えることはもっと難しいだろうと感じています。

今回はこの辺にしたいと思います。

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