イニシエーション

最近どうもこの「イニシエーション」という言葉が気になっておりまして、それについて文章を書こうと思いました。私がこの言葉に出会ったのはちょうど河合隼雄氏の著書を乱読していた中においてです。イニシエーションとは辞書的な意味では『ある集団や社会で、正式な成員として承認されること。また、その手続きや儀式。成人式・入社式はその一形態。』(goo国語辞書)などと書かれたりしていますが、河合氏も言及していたように、大昔の未開社会においてはいわゆる『社会』というのは確固たるものであったと考えられます。

社会の存在様式が確立していたために子どもと大人との境界線が明確であり、そのため子どもから大人になる時に儀式を必要としたようです。私の見解ですが、いつから大人になったのか明確でなければ自他共にその人物が社会の成員であるのか判別がつきにくかったので、明確である必要があったのでしょう。

ですが、近代社会においては社会そのものが刻々と変革していくために『社会』そのものの定義も変革し、何が正しいのかと言うことも刻々と変化し、言い換えると何を以て大人になったと言えるのかが複雑化しているということが言及されていました。

社会の成員となること・いわゆる大人になると言うこと

極言しますと、大人になることの定義は人それぞれ違います。もっとも大きな視点で見た時に、社会とは変えるべきものと考えるのか、受け入れるべきものと考えるのかという異なる2つの視点があるでしょう。

地球レベルで見た時、どこもかしこも問題だらけです。未だに宗教戦争は終わっていませんし、難民が大量発生していますし、大国同士が関税を掛け合って報復し合い、経済戦争の様相を見せています。そして、第2次世界大戦であれほど核兵器の悲惨さを経験したはずなのに、日本は核兵器廃絶の意思表示すら出来ないでいます。2011年の東日本大震災で日本が終わるかも知れないという極限状態を経験したのに、原子力発電所を再稼働すると言うことを考える人たちがいます。

大人になること」を諦めることと同義であると考える人がいます。感情的にならず、批判的な意見を持たず、ただ状況を受け入れることが彼らの言う大人の定義のようです。

ですが、今の日本のように社会の姿が大きく変わろうとする時に、何も感じず、何も批判せず、ただ受け入れるだけであると言うことは、それは自分が社会の一員ですらないと考えていることになるのではないかと感じています。無関心で、意見がないというのは、所属する集団の一員として、必要な体をなしていないと思います。

内閣不信任案趣旨弁明演説(2018年7月20日)

緊急出版! 枝野幸男、魂の3時間大演説「安倍政権が不信任に足る7つの理由」

私は本来、というより生来と言うべきでしょうか。政治にはあまり興味がない方です。その昔、自分にとって政治というのは直接自分にはあまり関係ないもので、選挙の時だけ選挙カーが近所を走り回り、名前を大声で連呼する、邪魔なものでしかありませんでした。

誰が当選しても特に何かが変わるわけではない。そう感じていました。

ただし、ある程度の自浄作用は信用していましたし、中学生の公民の時間に習った三権分立とか、憲法とか、そのような国の根幹をなす仕組みは有効に機能していて、不正や汚職があればきちんと摘発され、再びあるべき姿に戻るものだと感じていました。その自浄作用は自分に関係のないところで働くため、自分が政治参加するという感覚はまるでありませんでした。

言い換えると、その必要を感じないほどにある程度政治は正しく機能していたような気がします。ただ、それは表面的なものだったのかも知れません。

今年の7月20日(金)、立憲民主党の枝野代表が第196回国会において内閣不信任案決議・趣旨弁明演説を行いました。この内容はここ何年かの政治劣化のすべてを網羅したものではないものの、その演説の長さだけでなく分かりやすく整理され、きちんと国民に届く言葉で表明されたものであったので一部で話題を呼び、その発言内容が書籍化されるという珍しい現象を呼びました。私も買いました。

今の政権与党は問題だらけですが、言論の府という国会の信頼を地に落としたという意味で、戦後最悪の政府であると思っています。森友・加計問題は、終わっていません。日本にカジノは要りません。国会議員の給料を、このご時世に上げる必要性を感じません。検察も裁判所も腐敗が進んでいます。本当に、末期症状です。

民主主義

私は、ここ何年かプライベートの時間を犠牲にしてまで国会デモに行く機会がありました。本来、自分の時間を最大限自分のために使いたい私にとっては本当に異例なことです。それはつまり、それほど今の政治が異常な状態になっていると感じているからでもあります。

日本は、少なくとも戦後の世界の中では民主主義国家として認識されてきたように思います。ですが、私はそうではないと思います。もちろんこれは私の見解ですが、私から見て、学校や会社が民主主義的に運営されているとはとても言えないのではないかと思います。民主主義的であると言うことは、(これは私の定義ですが)それぞれが自分の意見を持ち、主義主張し、意見を戦わせていく中で全体としての意見を醸成していく、そのあり方そのものではないかと思います。

少なくとも、意思決定者とその他大勢のフォロワーに二分されているような状況では、民主主義が成立するはずがないと思います。もちろん、私は「民主主義が良いこと」だというイデオロギー主義からもできるだけ離れたいとは思いますが、少なくとも現時点の日本の状況から見て、これを主張する必要があると思うため、今はこの立場を取っています。

家庭の中で、学校の中で、そして会社の中で、あなたの意見はどの程度尊重されているでしょうか。また、あなた自身は自分の意見をどの程度尊重しているでしょうか。家庭、学校、社会という風にあえて身近な事例で書きましたが、政治も同列の話です。政治の話になると途端に「自分には関係のないこと」と考えてしまう人達が多いです。コンビニやスーパーなど、日常生活の中で自分がお金を出して商品やサービスを購入しますが、税金も、お金を支払ってその対価としてのサービスを受け取るという視点が必要だと思います。

非常に多額の税金を支払い、信託しているはずのサービス提供者としての政府が、税金をどのように使っているのかについて実に無頓着な現状があります。ですが本来これはお金を支払っている主体として、サービス提供の品質については厳しく監視するべき事であります。国民全体の利益に叶わないような税金の使われ方は、糾弾されなければなりません。

自分が主体であると考えることが、そもそも民主主義の出発点です。ですが、まだまだそれには遠い現状があります。つまり、まだ日本は出発点にさえ立てていないのではないかと私は見ています。

イニシエーション

少子高齢化、原発依存の経済、軍事関連企業への偏重、法の下の平等の腐敗、憲法の軽視、三権分立の事実上機能不全、集団的自衛権を認めるという憲法学的クーデター、等々、、、

今の社会は、ただ受け入れるべき社会でしょうか。

自分が生まれる前から存在していた社会、そこに生まれ落ちたちっぽけな自分に、一体何が出来るというのでしょうか。だから、ただ流れに身を任せ、自分は無力な存在であると感じながら、ただ何もできないままなのでしょうか。

そこでイニシエーションの話に戻ります。もはや狩猟石器時代のような確立された社会ではなく、時代は流動的なのです。従って、社会が間違っているのなら、それを正さなければならないのです。なぜならば、あなた自身もまた主人公だから、社会の一員だからです。大人になることの意味さえ時代とともに変わります。時と場合によっては、価値観を押し付けてくる社会に抗い、その社会そのものを変えようとすることがあなたにとっての「大人になること」なのかも知れません。

何かを変えようとする時、その場合は、イニシエーション本来の意味における「他者からの承認」は得られないかも知れません。そういう意味において、「何が正しいことなのか」という事があらかじめ決められている社会では承認も得やすかったですが、流動化する社会においては簡単ではありません。何が正しいのか、価値観そのものを自己決定することが必要になってくるのだと思います。

承認を得られないかも知れない、自分だけの生き方を自己決定すること。この世界をどのように見るのかと言うことを、自分で決めると言うこと。これは、口で言うほど簡単な作業ではありません。ですが、それを模索する作業そのものが「自分が生まれてきた意味」を見出していくことに繋がるのだと思います。

2 Comments

みにー

こんにちは。ランキングから来ました。哲学的で素敵なブログですね。また遊びに来ますね。

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